南シナ海・領有権争いと米中パワー対立(1)

 

 お久しぶりです。何とか準備ができました。
 中国にかかわる南シナ海問題を、平和共存への期待を込めて冷静に考えていきたいと思います。

 二つの場面に分けるのが適切だと思われる。一つは中国とベトナム、フィリピン、マレーシアなどとの二国間紛争(領有権争い)の場面、もう一つは中国とアメリカとの対立(パワー対立)の場面である。

 南シナ海紛争の中心であるスプラトリー諸島(中国名・南沙諸島、以下「ス諸島」と略す)は右図のとおりである。

ス諸島には約25の島と200以上ともいわれる岩、礁などがある。(陸地)は最も大きなイツアバ島(太平島)でさえ0.43k㎡しかないほどの小さなものばかりであり、高潮のときは水面下に沈む多数のも重要視され、占拠の対象になってきた。

二国間紛争(領有権争い)

1 ス諸島については、中国、ベトナム、フィリピン、マレーシアなどが領有権(主権)を争い、中国とベトナムはその全部の、フィリピンは東側の一部分の、マレーシアも南側の一部分の島しょ(島や礁など)の主権を主張している。南シナ海の紛争は、中国と各国との間だけでなく、ベトナムとフィリピン、ベトナムとマレーシアとの間にも存する四つ巴の争いである。

2 その領有権主張の根拠として、中国とベトナムは歴史的発見、漁民らの歴史的利用、植民地時代の宗主国の支配などを、フィリピンとマレーシアは地勢的状況、漁民らの歴史的利用、「発見」経過などを挙げている。

 ただ、そもそも広い海域に散在する多数の小さな島しょについてその発見や利用の主張を読んでみても、個々の存在自体が当時は限られた人にしか知られておらず、確かな記録史料があるわけでもないので、いつどの国の主権下に入ったといっても、どれも漠としていて雲をつかむような話しである(1のとおり紛争が多重化していることもその表れと思われる)。

3 1951年のサンフランシスコ条約で日本は支配していた台湾や新南諸島(ス諸島の一部)を放棄したが、台湾については中国への返還をきめたものの、新南諸島についてはその帰属先を決めなかったことも(そのために今日の紛争になったといわれる)、決め手がなかったからと推測するほかはない。

4 そのような島しょであったから、戦後まもなく台湾がイツアバ島(太平島)を占拠開発しようとしたほかは、そのほとんどが長く放置されたままに経過していた。ところが1970年ころ、ス諸島周辺に石油など豊富な海底資源が埋蔵されている可能性が国連の機関などから報告され、またそのころ海洋法制定の機運が高まって海底資源の発掘権が主権国に限られる動きがみられるに至った(1982年国連海洋法条約採択)。

5 こうしたことを機に、海底資源の獲得をめざして、まずベトナムが、続いてフィリピン、マレーシアがス諸島における島しょの占拠行動を開始し、ベトナムが17、フィリピンが8、マレーシアが5の各島しょ(いずれもほとんどが)を占拠してその実効支配を主張するに及んだ。
 中国はス諸島の領有権(主権)を戦後早くから主張していたものの、この占拠競争には遅れをとり、各国の占拠がほぼ終わった1980年代後半ころからようやくこれに目を向けるようになり、すでに他国が占拠していた部分はこれを避け、の部分を1995年ころまでに7か所占拠し、そこに建物を築造するなどして補強確保に努めた。(明日につづく  6/1)

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