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米軍と自衛隊の「指揮系統の統合強化」の危険性について

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(以下の拙稿は、老生が参加している市民運動グループ・市民デモHYOGOのMLに投稿したものです。)  先の日米首脳会談では、米軍と自衛隊の指揮系統の統合強化(以下「指揮権統合」という)が話しあわれた。この指揮権統合の動きは、自衛隊が米軍の指揮下におかれて従属的軍隊になってしまうばかりでなく、台湾海峡や南シナ海での緊張がとりざたされるなか、日本が戦争にまきこまれる危険性が一段とたかまる事態と認識すべきだとおもう。 1 他国間戦争への限定的参加から全面的参加へ   2015年の新安保法制と2022年の安保三文書は、憲法9条の「戦争放棄」をないがしろにし、自衛隊の行動限度、専守防衛の制約をこえて集団的自衛権の一部行使を容認した。    今回の指揮権統合の動きは、新安保体制下でなお自衛隊行動をしばっていた限界枠をとっぱらおうとしている。以下の2点に注目せざるをえない。 ①  自衛隊が他国間の戦争に加担するには、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより 我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある 事態」という厳格な要件が必要とされている( 存立危機 要件、自衛隊法76条1項二号)。新安保立法の際、自衛隊を憲法9条の制約内(自衛のためにある)にとどめるために設けられたものである。    しかしながら、米軍主導のもとで指揮権統合がなされると、米軍が必要とする作戦行動を自衛隊に補完させようとすることは確実だ(米軍は前々から自衛隊に肩代わりを求め続けてきた)。日本側の「存立危機」という参加要件の有無を検討するとは考えにくい。内閣総理大臣は「存立危機」の要件判断をないがしろにして、米軍に求められるまま自衛隊の出動を命令することになろう。いやむしろ、指揮権統合は日米間で「自衛隊の当然参加」密約を前提とするものと考えるべきか。 ②  昨年の安保三文書において、内閣は反撃能力を「 必要最小限度 」にとどめることを明記した。国会答弁でも、自衛隊の武力行使には「必要最小限度」の限界のあることをくり返し説明した。「戦争を放棄した」憲法9条との整合のためである。自衛隊は自衛隊法76条1項二号の出動時においてもこの限度内の行動にとどまらなければならない。     しかしながら、米軍主導の指揮

あらためて、なぜ(勉強ノート)にとりくむのか・・・そして清代の儒者・戴震(たいしん)について

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                              ( 勉強ノート) 現代に生きる中国の伝統思想(3)   中国の大国化とともに米中新冷戦がはじまった。中国の民主主義・人権欠如を非難する欧米(日本政府も含む)の声はますます高まる感がある。中国政府は反発する。「中国には中国の民主主義がある。他国から非難されるいわれはない」と (注1) 。  「民主主義」の国日本に育った老生には、民主主義(議会制、選挙など)と基本的人権は、空気のように当たり前すぎる。逆に「独裁」という言葉には「プロレタリアート」の語を修飾しても、「共産党」の語を加えても、肌感覚として違和感がぬぐえない。  ただ、立場をかえてみれば、すなわち中国の地に生まれ、その地の歴史、習慣、ものの見方・感じ方のもとに育った人々からみれば、老生の違和感こそ理解できないものかもしれない。ちょうど、女性を特別の地位に置くイスラムの人たちに「男女同権」とか「飲酒の習慣」が理解しにくいかもしれないように。またアマゾン奥地の採集狩猟民族にとり「農耕生活の安定性」といわれても想像を絶するかもしれないように。   独自の文明・文化のもとで暮らす人々を、他文明・文化の中に生きる者は安易に非難できない。その文明・文化生活を維持するか変えるかは、そこに暮らす人々が決めることだ。   「中国には中国の民主性がある」との主張にも真摯に耳を傾け、理解を深めるべきではないか、老生は数年前からその思いにとりつかれてきた。   儒教史家・溝口雄三の一連の著作(中国の歴史には欧米とは異なる独自の「基体」がある)と、これを基本的に支持する中国・日本思想の研究者・孫歌の本がある。これらの書物が老生を後押ししている (注2) 。 儒教の本など一度も読んだことのないうえに哲学の素養もない老生には、どちらの本もまことにむつかしい。ただ、ところどころに胸にぐっとひびくような個所があって、いずれじっくり読みさらに関連する本にもあたって勉強したいと思ってきた。米中対立が緊張を継続しつつもやや落ち着きの見えるこの時期、予期した結論をうる確たる見通しもないままに、この(勉強ノート)にとりかかっている。 中国理解に期待する成果がえられるかどうかはわからない。ただ、理解を深めるのになにがしかの足しにはなるだろう。なによりも、80歳を迎えようとする今、ほかに楽

ヒューマニズムへの道が開かれんとした陽明学(15、16世紀)

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                                                                                  ( 勉強ノート)現代に生きる中国の伝統思想(2) 中国儒教は、紀元前の戦国時代に孔子、孟子らによってはじまった。漢、唐の時代にはこれら聖人の教えを学ぶ儒学として、皇帝を支える上層階級がわがものとしていた。儒学はその後、道教、仏教などとの競争によって鍛えられ、宋の時代になると、朱子( 1130 ~ 1200 ))らによって体系的な哲学として完成され、政治、道徳の根本を貫く原理思想となった。朱子学である (注1) 。 (堅くるしい朱子学)                     朱子学は、この世界に存在するものはすべて「気」によって構成され、すべてのものは、単に存在するだけでなく、「あるべきように」(統制原理のもとに)存在している、そうさせているものとして「理」がある、と説明する。 「理」は存在するものの「存在原理」と「統制原理」の両面をもつことになる。こうして万物はすべて「気」と「理」によって構成される。理気論といわれる。   人間という存在も、「気」によって形成され、そこに「理」(「天理」ともいう)が付着している。道徳論がそこから展開される。人間は、心のなかに統制原理としての「理」を保持し、本来は完璧な(聖人のような)道徳の保持者である。だが他方で、心には気質にねざす「情」や「欲」もあって、これらが過大となって悪をもたらし、本来の心がもつ「理」の純粋さが損なわれがちである。そこで、人間は障害となる情欲を排除し、気質を変化させることによって、本来の完全な「理」を回復すべきだ、朱子学の修養論がこれである。「天理を存し、人欲を去る」の教則が生まれた。   (ヒューマンな心を重視した王陽明) 朱子学を学んだ明代の王陽明( 1472 ~ 1529 )は、哲学の基本はこれでいいと考えたが、道徳論においては、目標が人欲を制限・排除する修養に重きに置かれることに納得がいかなかった。そのリゴリスティックな修行のためには、過大な時間と富と勉学の能力が必要となる(四書五経など万巻の書を読んで聖人の教えなどを勉強しなければならない)。国家の上層を占めるエリートにしかできないことである。自分でもこの方法による修養をためしたが、うま

「中国のルソー」と呼ばれた17世紀の儒者・黄宗羲 (こうそうぎ)

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                                                       (勉強ノート)現代に生きる中国の伝統思想(1) 黄宗羲は、17世紀の中国、明末清初に活躍した儒教・陽明学派の大学者である。その代表的著作「明夷待訪録」(めいいたいほうろく)には、時代の先鞭をつけるような民意尊重思想が書かれている。簡易にして明快な西田太一郎訳の東洋文庫版(平凡社)から大意をとってみる。 第1篇           君主論 (大意)   人類の歴史がはじまったころ、人びとはみんな利己主義であった。天下に害するものがあっても、これをとり除くものがいなかった。そこへ一人の人がでてきて、自分の利益を考慮せず、ただ天下に利益をもたらすことだけを考えて、天下の害をとり除いた。その人の労苦は天下の人びとの千倍万倍であったろう。そのような労苦を引き受け、しかも自分の利益をうけないような君主の仕事は、天下の人の人情として誰もやりたがらないにきまっている。聖代の君主であった堯、舜、禹らはいくぶん違っていたが。   だが、(聖王らの御代とことなり)後世の君主はまったく労苦を引き受けようとしない。かえって彼らは自分の利益だけを考え、天下の害は人におしつけていい、と考える。君主は人びとの利益追求を妨害する一方、天下をこよなく大きな自分の財産とみなし、しかも子孫にこれを相続させ、永遠にわがものとしようとする。君主は、人びとを痛めつける一方で、おのれ一人の財産をふやす。「おれはもともと子孫のために財産を作り出すのだ」といい、おのれ一人の淫楽にふける。天下の大害をなすのは、君主なのである。もしも君主がいなかったら、人びとはおのおの自己本位に行動できたのである。  むかしは、天下の人びとはその君主に親愛の念をもっていた。父にたとえ、天になぞらえたが、今や人びとは、その君主をうらみ憎しみ、かたき同様にみなしている。後世の君主が天下をわが財産とみなすとき、人びともその財産を手に入れたいと思うのは当然である。君主一人がその財産を紐でしばりかぎを固くかけて守ろうとしても、天下の人びとの方が人数が多いので、君主は人びとに打ち勝つことができない。自分の代のうちか数代後かに天下はうばわれ、血みどろの破滅が自分か子孫におこって滅亡する。 子孫はいたましいではないか。一時の淫楽