ヒューマニズムへの道が開かれんとした陽明学(15、16世紀)

                                                                                 勉強ノート)現代に生きる中国の伝統思想(2)

中国儒教は、紀元前の戦国時代に孔子、孟子らによってはじまった。漢、唐の時代にはこれら聖人の教えを学ぶ儒学として、皇帝を支える上層階級がわがものとしていた。儒学はその後、道教、仏教などとの競争によって鍛えられ、宋の時代になると、朱子(11301200))らによって体系的な哲学として完成され、政治、道徳の根本を貫く原理思想となった。朱子学である(注1)

(堅くるしい朱子学)                    
朱子学は、この世界に存在するものはすべて「気」によって構成され、すべてのものは、単に存在するだけでなく、「あるべきように」(統制原理のもとに)存在している、そうさせているものとして「理」がある、と説明する。
「理」は存在するものの「存在原理」と「統制原理」の両面をもつことになる。こうして万物はすべて「気」と「理」によって構成される。理気論といわれる。 

人間という存在も、「気」によって形成され、そこに「理」(「天理」ともいう)が付着している。道徳論がそこから展開される。人間は、心のなかに統制原理としての「理」を保持し、本来は完璧な(聖人のような)道徳の保持者である。だが他方で、心には気質にねざす「情」や「欲」もあって、これらが過大となって悪をもたらし、本来の心がもつ「理」の純粋さが損なわれがちである。そこで、人間は障害となる情欲を排除し、気質を変化させることによって、本来の完全な「理」を回復すべきだ、朱子学の修養論がこれである。「天理を存し、人欲を去る」の教則が生まれた。 

(ヒューマンな心を重視した王陽明)
朱子学を学んだ明代の王陽明(14721529)は、哲学の基本はこれでいいと考えたが、道徳論においては、目標が人欲を制限・排除する修養に重きに置かれることに納得がいかなかった。そのリゴリスティックな修行のためには、過大な時間と富と勉学の能力が必要となる(四書五経など万巻の書を読んで聖人の教えなどを勉強しなければならない)。国家の上層を占めるエリートにしかできないことである。自分でもこの方法による修養をためしたが、うまくいかなかった。

王陽明は、長年の修養と思索の末、人欲を去って天理を得るとは、自分の心(「良知」)に問うことだ、との心境に達した(「心即理」)。この点、山井湧の以下の説明が分かりやすい。
「自分の心が天理と合致した状態にあるかどうかは、自分自身の心が一番よく知っている。それを明らかに見きわめる心の能力を、王陽明は「良知」と呼んだ。良知の働きによって、自分の意思や行為が理にあっているかどうかは必ず見抜ける。何かをしようとする場合、自分の心自体がそれを決定し処置するわけだから、それをしようとする自分の「意」の中に、理に合わない要素がないか、間違っていないか、心の良知が必ずそれを見抜くことが出来る。良知がこれでよろしいと判断した場合は良知の命ずるままに行う、その行為は理にかなった善なる行為であって、それを行うことによって理が行為の中に実現される。理はそのようにして実現する以外に求めようはないので、修行したり万巻の書物を読むなどして外を探しても、理はどこにも見つからない、理は心のなかにこそある。それが「心即理」の主張で・・・」(注2) 

かくして、人欲を除去するための修行などいらぬ、ひたすらわが「良知」を呼び起こす努力をすべきだ、その「良知」に従って行動すれば間違いは起こらない、これなら、エリートでなくても、万人にできる「聖人への道」である。心の「良知」は朱子において除去されるべきものとされた「人欲」をも「人の正当な欲望」として肯定する方向に転化していく。こうした内容を持つ、ある意味で人間賛歌・ヒューマニズムの学問が、王朝上層部から遠く離れた庶民の間でも支持の広がりを見せることになったのも当然である。陽明の弟子たちは「街中が聖人」といった。 

(万物一体の仁)
この「心即理」「良知」との関連で、王陽明が力を注いだ主張に「万物一体の仁」がある。王陽明の死後、弟子たちが陽明の言行を編んだ書物「伝習禄」には、
「明徳はこの心の徳であり、とりもなおさず仁である。仁とは、天地万物を一体となすもの、もし、一物といえども所を失うものがあれば、それはわが仁がつくされていない、ということにほかならない」 「こどもが井戸に落ちようとするのをみれば、かならず惻隠(憐憫)の心が起こる。その仁がこどもと一体であるからである」 「人は天地の心であり、天地万物はもと吾と一体なるものである。生民の困苦茶毒(とどく)、一つとして吾が身に切実な疼痛でないものがあろうか。吾が身の疼痛を知らざるものは『是非のこころなきもの』というべきである」 など、人間への愛と連帯のことばが記録されている(注3) 

島田虔次はまた、伝習禄の以下のようなことばの中に、万物一体の仁という生の連帯から直接にほとばしり出る陽明の衝動をみる(注4)
「余は、民の陥溺を思うごとに痛心し、身の不肖なるをも忘れて、それによって救済しようと志した」 「疼痛のわが身にせつなるこの際、人の嘲笑をかえりみるいとまがあろうか。父母兄弟が深淵に墜落しようとするを見ては、号叫し匍匐し、はだしでころびより、断崖にぶらさがって、救おうとする」 「夫子が、見失ったわが子を求めるがごとく、席のあたたまるいとまもあらざりしゆえんのものは、人に知られ、人に信じられようとしたためであろうか。いな、その天地万物一体の仁の、痛切切迫、やまんと欲するもやむあたわざるものがあったからである」等々。 

(中国思想における陽明学の位置づけ)
 島田虔次によれば、王陽明思想の全体は、基本的には、伝統の上下関係的な「分」(王朝秩序)の維持・安定を図ろうとするものではあったが、誰でも身につけられる徳の平等性(水平原理)が異常な熱気を帯びて主張されるところに、垂直原理にある王朝秩序を揺るがす危険性をはらんでいた、という。(注5)
ちなみに、中国では古代から共産主義的ユートピアを示す「大同」のことばがあった。その「大同」思想は、清末太平天国の洪秀全、改革主義者・康有為、革命家・孫文らにおいて大きな役割をはたした。島田虔次は「万物一体の仁」を強調した王陽明がついに「大同」をも口にしたところは注目してよい、と述べている(注6)

王陽明の思想は、その後明末から清初にかけて、これを受け継ぐ流派の者たちにより深められ、民の「人欲の肯定」のほか平等や権利を強める、西洋の「近代化」と相通じるかのようなさまざまなヒューマンな思想が輩出された。前回の黄宗羲もそのひとりである。 

ただ、そのいわば「近代的」思想は、その後中国の近代に向けて一直線に貫流・発展したとはいえなかった。島田虔次は、この流れの停滞を「近代思惟の挫折」とみた。これに対し、溝口雄三は、王陽明とその後継者らの思想は、清代を通じてもなお底流に流れており、現代中国につながる「基体」(原理)を形成する重要な一部となった、と主張する。このあたりの研究は、現代中国の「民主性」論議との関連で、難解だが、まことに興味深いものがある(注7)。いずれ勉強成果を報告できればと思っている。

注1)   本稿は、島田虔次「朱子学と陽明学」(岩波新書)、山井湧「明清思想史の研究」(東京大学出版会)、溝口雄三ら「儒教史」(山川出版社)などから勉強した。
注2)   山井・前掲104頁(要約)
注3)   島田・前掲134、135頁から引用
注4) 島田・前掲137,138頁から引用
注5)   島田・前掲142頁
注6)   島田・前掲140頁
注7)   島田虔次「中國における近代思惟の挫折」(筑摩書房)、溝口雄三「中国前近代思想の屈折と展開」(東京大学出版会)、孫歌「思想史の中の日本と中国 第Ⅰ部 歴史の「基体」を尋ねて」(東京大学出版会) など


コメント

  1. 隠居老人さま
    中国文化に対する貴兄の深い見識に敬意を表します。
    ところで最近の日本では、中国に対する敵意はあまり激しくなくなっているようにも見えますが、反戦運動の方も一向に増加していません。
    私は台湾有事即日中戦争の可能性は、無くなっていないと思います。
    ですから反戦運動は必要なのですが、その気配はほとんど見られません。
    何か運動の可能性はないものでしょうか?

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