「中国はばらばらの砂、自由が多すぎた」 孫文がみた伝統中国の農村

                                                               (勉強ノート) 現代に生きる中国の伝統思想(4)

孫文の「三民主義」を読んで、意外な感とともに強い印象をうけ、考えさせられたのは、「中国には自由が多すぎる」とする一連の論であった。

   中国歴代皇帝は、謀反に対しては一族連座で殺すなど強大な懲罰で対応したが、人民に対してはおおむね寛大な態度をとった

   中国人民が皇帝にたいしてもつただ一つの関係は、租税をおさめることであり、それ以外、人民は政府となんの関係も持たなかった

   中国人は、なぜばらばらな砂なのか。何によってばらばらな砂にさせられたのか。それは各人に自由が余りにも多すぎたからだ

◎ われわれは自由が多すぎ、団結を欠き、抵抗力がないから、ばらばらな砂になり、ばらばらな砂だから、外国帝国主義の侵略をうけ、こんにち、われわれは抵抗も出来ないのだ。将来、外国の圧迫に抵抗出来るようになるためには、各人の自由を打破し、ちょうどばらばらな砂にセメントをまぜて、堅い一つの石を作りあげるように、強固な団体を作らなければならない (注1)

  魯迅の小説の主人公「阿Q」を思い出す。清朝末期、革命前夜の農村に住むルンペンプロレタリアートの「阿Q」、趙大旦那にいつも叱られ、村人から馬鹿にされ、いじめられながらも、へこたれず、土地神の祠で寝泊まりし、あっちこっちと動き回り、ときに大旦那の家の仕事を手伝ってわずかな金を得、それでまた賭博をしたり、飲み屋に出入りし、毎日を天真爛漫、面白く快活に生きている・・・

「水滸伝」は長すぎ、老生はいつも2巻目の途中で読みやめてしまうが、中国の農村でたくましく生きる無頼漢たち、これに対処する頼りない王朝官憲・・・、日本の中世にはとうてい見られないような光景、豪傑たちは仲間には情が厚いが、官憲には果敢に戦いを挑んでいく・・・

(近世中国農村の実態)
孫文のいう「自由が多すぎた」中国の近世農村はどのような社会であったのか。京都大学教授寺田浩明の「中国法制史」は、清の時代(1636~1912)の多数の裁判記録を調べて農民らの生活と意識を浮き彫りにし、中国社会の政治と秩序の根底にある思想に光を当てている(注2) 

中国の清時代の農村と農民の生活を大ざっぱに眺めてみると、
(均分相続)
中国農民は、伝統の家父長制のもと家を中心とした家族一体の生活をおくっていた。父親が死んで兄弟間で家産分割すれば大家族は分割され新たな家が生まれる。日本では家を存続させるため長兄だけの一子相続であったが、中国では兄弟均分による相続が伝統であり、農地も均等に分割相続された。

(零細化を防ぐ工夫)
   このため、相続による分割のたびに農地は細分化され生活の零細化は避けがたい。そこに、農地の耕作管理を互助的かつ頻繁に移動させて(売買、小作、担保、平均10年に1回ほどあったという)、生活の苦境を乗り切り、また向上しようとするたくましい農民の姿があった。

(農地売買自由と移住自由の伝統)
   ちなみに、一君万民(一人の皇帝、他はみんな臣下)が伝統で、中間領主のいない中国では、農民は自らの農地を他と取引(売買、小作、担保)することは自由であり、他の土地に移住することも転職も自由にできた。王朝政府にとってはその土地の耕作者が誰であろうとその農地の収穫に見合う租税さえ納めてくれれば文句はないからである。小作地の場合も、同じ理由でその権利の取引は自由で、小作人の移住、転職も妨げるものはなかった。

   西洋や日本で、中間領主(藩主)の人的物的な支配が行き渡り、村落にも共同体的性格が強く、農民らは厳しい規制と監視の下にあった(日本の場合、幕府からの田畑永代売買禁止令などの法令、領主の定める法度、村人全員で定める村掟、入会地などの管理利用規則、5人組による監視制度、異端者に対する村八分の制裁など)のとは様相が大きく違っていた。

  中国の農村に拘束感を伴う村落共同体的色彩がみえない理由は、家産分割(上記の均分相続)を繰り返し、分かれた家のどれがどれだけ持続するか定かでないので、家々の間に世代を超えた超長期的で強固な互助関係を築くのがむつかしかったことが背景の一つと考えられる(注3) 

(紛争と裁判)
  均分相続による零細化圧力のもとで、貧しくも家族のために懸命に生きる中国農民は、自己の耕作する農地を、購入、一時売却、買い戻し、小作契約、担保差し入れなど、生活をかけて頻繁に取引をする。そのような取引に紛争はつきまとう。中には深刻化して犯罪行為にまで及ぶことすらあった。こうした紛争を解決することが、政治、社会にとっては最重要な課題であった。

  どの社会にも自然発生的にあった近隣住民が間に立ってする仲裁行為。これで解決できないときは、中国農民は同じ村あるいは近隣の村に住む影響力のある有力者(富農、紳士、科挙合格者など)に仲裁を求める。それでも、だめなら近隣の中心都市にある王朝の出先官庁に訴えて裁判を願い出る。その裁判に不服なら、さらに王朝の上級官庁に不服を申し立てる。最後は皇帝にまで訴える。このように清代の農民らには重層的な民間、官制の紛争解決の場があり、自己の不満をその場に持ち込んでいた。

  現代社会の多くの国で行われている紛争解決の規準となるものは法と契約といってよい。特に国家が関与する裁判においては、契約内容など事実関係を確定したうえこれに法をあてはめ、一刀両断的に当事者の勝ち負けを判定する。

ところが、伝統中国では、法はもちろんあったが、民間の仲裁の場合はもとより朝廷が主宰する裁判の場でも、裁判官(仲裁人)は、当事者の持ち出すあらゆる事情を全部聞きとげたうえ、法ではなく、情と理(情理)を規準とした解決案をつくり、これを当事者に示す。当事者がこれに納得したら裁判は終了(紛争解決)し、納得できない場合は上級への不服申し立てがなされる、このような方法が取られていた。

寺田教授は、西欧だけでなく現代の多くの国で行われている裁判方法をルール型、中国清代のような紛争解決方法を公論型と呼んでいる(注4)。次回は、この公論型について、少し詳しく紹介し、ルール型と違うその背景を考え、中国伝統思想、秩序観をさぐっていく。

(注1)      以上「孫文選集 第1巻」社会思想社 156頁~167頁
(注2)     寺田浩明「中国法制史」東京大学出版会(2018年初版)
(注3)     同書102頁
(注4)     同書206頁以下

 

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