あらためて、なぜ(勉強ノート)にとりくむのか・・・そして清代の儒者・戴震(たいしん)について

                             (勉強ノート) 現代に生きる中国の伝統思想(3)

 中国の大国化とともに米中新冷戦がはじまった。中国の民主主義・人権欠如を非難する欧米(日本政府も含む)の声はますます高まる感がある。中国政府は反発する。「中国には中国の民主主義がある。他国から非難されるいわれはない」と(注1)
 「民主主義」の国日本に育った老生には、民主主義(議会制、選挙など)と基本的人権は、空気のように当たり前すぎる。逆に「独裁」という言葉には「プロレタリアート」の語を修飾しても、「共産党」の語を加えても、肌感覚として違和感がぬぐえない。
 ただ、立場をかえてみれば、すなわち中国の地に生まれ、その地の歴史、習慣、ものの見方・感じ方のもとに育った人々からみれば、老生の違和感こそ理解できないものかもしれない。ちょうど、女性を特別の地位に置くイスラムの人たちに「男女同権」とか「飲酒の習慣」が理解しにくいかもしれないように。またアマゾン奥地の採集狩猟民族にとり「農耕生活の安定性」といわれても想像を絶するかもしれないように。

 独自の文明・文化のもとで暮らす人々を、他文明・文化の中に生きる者は安易に非難できない。その文明・文化生活を維持するか変えるかは、そこに暮らす人々が決めることだ。
 「中国には中国の民主性がある」との主張にも真摯に耳を傾け、理解を深めるべきではないか、老生は数年前からその思いにとりつかれてきた。
 
儒教史家・溝口雄三の一連の著作(中国の歴史には欧米とは異なる独自の「基体」がある)と、これを基本的に支持する中国・日本思想の研究者・孫歌の本がある。これらの書物が老生を後押ししている(注2)
儒教の本など一度も読んだことのないうえに哲学の素養もない老生には、どちらの本もまことにむつかしい。ただ、ところどころに胸にぐっとひびくような個所があって、いずれじっくり読みさらに関連する本にもあたって勉強したいと思ってきた。米中対立が緊張を継続しつつもやや落ち着きの見えるこの時期、予期した結論をうる確たる見通しもないままに、この(勉強ノート)にとりかかっている。

中国理解に期待する成果がえられるかどうかはわからない。ただ、理解を深めるのになにがしかの足しにはなるだろう。なによりも、80歳を迎えようとする今、ほかに楽しみの少ない隠居老人には、このテーマでゆっくり本を読み、疑問を抱き、考え、どう書こうかと戸惑う時間こそ、生きている充実感を与えてくれる。やっかいな勉強ではあるが、残りの人生をついやす十分な値打ちはあるだろう。
 
 戴震について
さて、この(勉強ノート)では、まず黄宗羲と王陽明をとりあげた。中国儒教が人民の間に広がり活性化した明末清初の大思想家たちである。彼らの活躍は中国流近代思想の夜明け前を思わせるものであった。その後満州族がうち立てた清王朝となってからは、せっかくの儒教「発展」もその勢いを失い停滞したといわれている。
それでも、農業、商業、手工業、貿易など経済活動は活発化し、中国は確実に成長期にあった。特に農村社会における、士大夫、読書人などと呼ばれる富農を中心とした郷里空間は、王朝支配下で一種の「地方自治」を成長させ、王朝の末端統治と民権伸長の両面で独特の役割をはたしていた。「郷治」とよばれた農村社会は、西欧世界におけるような権利・義務、契約関係が大手を振るような人間関係ではなく、いさかいは絶え間なくあっても最後は情理にもとづく和解的解決が期待されるような空間であった。人々は、貧しいながらも、ある意味で自由に伸び伸びと日々の生活をおくっていたのである(注3) 

 朱子学が隆盛するなか、人の欲望についてはこれを消極にみて抑圧されがちであった。富裕地主層が力を増し、社会の経済活動が活発化する明末清初となって、人の欲望は肯定される方向に転換しようとしていた。戴震(17241777)はこの流れを継承し、改めて欲望に消極的な朱子学の「理」を批判し、欲望を積極的にみる「気」の哲学を主張した。
 この点、山井湧は、次のように説明する(注4)
 戴震は、欲望が生命の維持保全に関わるものであり、その意味で人にとって欠くべからざるものであることを強調する。…理や善は情欲に即してこそ成立するものであるから、情欲は決して抑えるべきものではなく、大いに伸長すべきものであるとして、積極的にこれを肯定した。 

もとより戴震も、過大すぎる欲望は「失」であるとしてこれを容認しなかったが、己れの欲望と他人の欲望との調和をとれた正しい関係にこそ「理」があり「仁」があるとした。
欲はなければならぬ。ただ寡なくせねばならぬ・・・人が生まれてきた以上は、生を遂げる方法を欠くことがあってはならない。自分の生を遂げようと欲しながら、他人の生をも遂げさせるのが仁であり、他方、自分の生を遂げさせようと欲して、他人の生をそこなうことを平気なのが不仁である。・・・仮に、この欲がなくなれば、天下の人の生きる道が行き詰る・・・自分があくまで生を遂げようとしないのに、他人の生を遂げさせるなんてありえない注5)

 溝口雄三は、戴震が庶民の生存欲としての「欲望」肯定の意義を思索し、儒教伝統の「仁」解釈が人々の水平的連帯思想に高められたことを指摘する。「長い間、仁慈つまり上位者の下位者に対する惻隠の心として、あるいは自から他への自分の側の思いやりの心として観念されてきた「仁」が、自と他もっといえば個と個の間のいわば横軸の社会関係の場でとらえられはじめた」と(注6)
溝口は、垂直型から水平型に比重を移したこの「万物一体の仁」を中国自然法上の調和思想としてとらえた。これがその後の太平天国の乱の大同思想や清末の革命家らに大きな影響をあたえ、さらにそれは現代中国にも生きているという 

次回はいよいよ孫文である。西洋の衝撃(阿片戦争など)により目を覚まされた中国の王朝、人民は、歴史に積み重ねてきた「理」、「郷里空間」、「調和」、「仁」など独自の中国思想をもとに、いかなる国家社会を再建すべく発進しようとしたのか。 

(注1)   中国政府のいう「中国の民主主義」とは西洋流の議会制、選挙制、言論の自由のことではあるまい。民の幸福を第一の目標に民の声に耳を傾ける政治姿勢、「大衆路線」ともいうべきものであろう。「民主性」というべきか。
(注2)   溝口雄三「中国前近代思想の屈折と展開」(東京大学出版会)、「方法としての中国」(同)、「中国の衝撃」(同)、「中国の公と私」(研文出版)、「儒教史」(山川出版社)、「中国思想のエッセンスⅠ、Ⅱ」(岩波書店)など
  孫歌「思想史の中の日本と中国 第Ⅰ部 歴史の「基体」を尋ねて」(東京大学出版会)
(注3)   寺田浩明「中国法制史」(東京大学出版会)は、清代の「郷里空間」における生活と紛争解決を法的側面から緻密に調査研究した書であり、溝口「基体論」の下部構造ともいうべきものか。じっくり勉強する要あり。
(注4)   山井湧「明清思想史の研究」(東京大学出版会)372頁(要旨)
(注5)   「中国文明選8 戴震集」(朝日新聞社)の孟子字義疏証・巻上「理」83,84頁
(注6)   溝口雄三・前同「中国の公と私」24頁

コメント

  1. 民主主義と独裁

    中国を敵視する人達が習近平氏を独裁者として糾弾するのをよく見ていますので、この問題をきっちり考えることは重要だと私も思ってきました。
    私はヒトラーの例から考えても、独裁は民主主義から生まれるものであって、どこから独裁とするか?その区別はなかなか難しいと思っています。
    現在のアメリカ大統領は、原爆投下を命令できるほどの独裁者であると思っています。
    しかしその任期は8年という限界があるのが、習近平氏やプーチン氏と違うところに過ぎない、と思います。
    任期中の権限にはあまり違いはないように思っているのですが、如何でしょうか?

    但しヒトラーが行ったホロコースト、スターリンの粛清は、独裁者として行ったこととして、断罪する必要はあると思います。
    しかしプーチン氏のスパイ殺害などは、慎重に考えるべきだと思います。
    これもどの国もCIAのような組織がやっていることだと思うからです。

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  2. 隠居老人さま
    独裁者と言う言葉の定義が必要だと思います。
    世界の国々の政治のトップは大なり小なり独裁権限を持っている、と私は思います。
    その独裁権限の量と質の違いが問題で、それをはっきりしなければ独裁者批判は無効だと思います。

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