台湾問題を歴史から考える(2)
アメリカは、戦前から蒋介石政府の対日戦争を支援してきており、戦後も共産主義勢力とたたかう蒋介石側の支援を継続し、蒋介石が台湾に逃れてからも、さまざまな援助をつづけてきた。1954年には米華相互防衛条約をむすび、台湾に米軍基地をおき、武器供与などもした。ただ、アメリカが、弱き国民党政府に与えた軍事的支援は、冷戦下にあって共産中国への対抗支援の意味はもちろんであるが、蒋介石がその野心から大陸反攻という危険な冒険にでて東アジアの安定を乱すことのないようにおさえる役割もあった。
1954年と58年の2回、台湾海峡で中台間の戦闘が勃発し、米軍も台湾を後方支援したが、いずれも相手領地(大陸と台湾)への侵攻までにいたらず、海峡上の攻防に終始した。これは中国とアメリカの双方が直接衝突を回避しようと努めたことによるものであった。
この時期、毛沢東の中国は蒋介石政府を倒して中国統一の方針をもち続けていたが、大陸での国内統治に追われており、軍事的にも蒋介石の背後にいるアメリカに対抗できる力もなかった。中国は、時に統一の意思を示すために台湾海峡で威迫的行動をおこすにとどめ、統一のための実際行動は先送りされたままであった。
2 米中平穏期=「一国二制度」期 (1972年~2015年ころ)
1972年、まだ冷戦下でベトナム戦争も終わっていない時期、アメリカのニクソン大統領は、キッシンジャー補佐官に中国との秘密交渉を重ねさせたうえ、訪中して毛沢東、周恩来と会談し、米中関係正常化のための交渉を開始した。「中国人が中国はただ一つであり、台湾は中国の一部分であると主張していることを認識し、これにアメリカは異論をとなえない」旨の「上海コミュニケ」を発表した。米中関係を大きく転換させる事件であった(写真はニクソンと毛沢東)。アメリカが対中国正常化に踏み切った背景には、冷戦下でソ連の優位に立つことが何よりも重要であったとき、中ソ対立が先鋭化していた状況をとらえ、「敵の敵は味方」すなわち中国と手をむすぶことがソ連との対決に有利と考えたことなどにある。中国も対立を深めて軍事的衝突にまで発展していたソ連への対抗上、同じ論理でアメリカと手をむすぶことにしたのである。
ただ、米中の正常化交渉は難航し、1978年に国交を樹立するまでに6年を要した。最大の難問は、当然のことながら台湾の国民党政府の問題であった。中国は、「中国は一つであって、台湾は中国の領土の一部であり、中国と台湾の関係は内政問題である」(「武力行使もできる」の意味を含む)との原則を終始つらぬいた。(明日につづく 2/5)
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