台湾問題を歴史から考える(3)
これに対し、米国は「一つの中国」の形は了解するものの、長年の「同盟国」の中華民国を切り捨ててしまうことは、自由主義陣営のリーダーとしての信頼性を大きく損なうこと、また台湾がソ連に接近してあらたな紛争の種をもたらしかねないことなどを懸念して、①一つの中国はいいが、台湾にもアメリカ政府の連絡事務所をもうけるとか、②台湾と統一する場合でも武力行使ではなく平和的に話し合いでする約束(平和的解決の保障)をさせるとか、③台湾への武器輸出を容認すること、などを中国に求めた。しかし、このうち①は断念し、②③のいずれも了解に達しないまま、急ぐ事情に追われて交渉は打ち切られた。そして、そのまま1978年12月、米中は第二次共同声明を発表し、「台湾は中国の一部である」との中国の立場を改めて確認したうえ、国交樹立に踏み切り、アメリカは中華民国政府と断交した。
この未決着部分を残したままの中途半端な国交樹立は、反共的で台湾を重視するアメリカ議会に不満を残し、議会は、断交後の台湾との民間の経済・社会関係を定める「台湾関係法」の審議において、政府原案と大きく異なるものを成立させた。すなわち、台湾海峡における中国の武力の行使をアメリカの「重大関心事」と認め(「アメリカは防御出動する」の意味)、また台湾への防御に要する武器の売却を政府に求めるなど、国内法とはいえ廃棄する米華相互防衛条約と実質的に同じような内容のものであった。
こうして、①中国が台湾に武力行使するのは内政問題である、②中国が台湾に武力行使すれば米国に防衛義務が生じる、などの重要争点で相互了解に至らぬまま、中途半端に「一国二制度」が米中間の「約束事」となって動き出した。
ただ、中国が文化大革命を終了し、改革開放路線により国内経済の再建にまい進するなか、ソ連崩壊により冷戦が終了したことも加わり、米中関係は、未決着部分がさしたる問題となることなく、比較的穏やかで友好的な時期がつづいた。
台湾も、アメリカからの国交断絶措置に対して、ソ連との提携とか核保有に向かうなど、懸念された反発措置をとることなく、世界の大勢としてこれを受け入れ、もっぱら国内の政治社会の発展に力をそそいだ。政治分野では李登輝が1988年に総統に就任して以来、民主化政策が成功し、1996年には総統選挙も実施された。また経済分野でも、躍進する本土中国との協力連携を深めつつ大きく躍進した。
かくして、米中国交正常化に端を発するこの時期は、拙速決着による紛争の火種は残しつつも(実は次第に大きくなりつつあったが)、その発火を招かないまま、米中台の関係は表面上平穏に推移していた。(明日につづく 5/3)
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