前回に続いて、尖閣問題について考えたい。
その前に、明治初期の「琉球処分」をめぐる日本と清との葛藤を簡単に見ておきたい。これが後の尖閣問題と大いに関係するからである。
(琉球国から沖縄県へ 琉球処分をめぐって)
琉球(のちの「沖縄」)は、14世紀に明と朝貢・冊封関係に入ってその属邦となり、16世紀に清に変わってからもその関係は維持されていた。他方、17世紀に薩摩藩の侵攻を受けてからは日本の支配も受けるようになり、中国と日本の両方に従属する関係(従属的二重朝貢)にあった。
19世紀に入り、薩摩藩が琉球との関係を強めたあと、明治維新後の日本政府は、琉球に対し清との冊封関係の廃止を求め、日本へ統合しようと企てた。明治12年(1879年)にはついに、熊本鎮台の歩兵300名、警察官140名などを派遣し、武力を背景に琉球藩を廃し、国王尚泰に東京居住を命じて華族に列し、代わって中央から県令(知事)を配し、沖縄県を置く措置を強行した。いわゆる琉球処分である。
琉球処分に対しては、士族の中に特権的身分が失われる不満から清国に亡命して救援を求めるなど、旧支配層に琉球王国の再興を期す動きもあって、現地の政情は必ずしも穏やかではなかった。(⑪37頁)
他方、属邦の琉球を奪われる形となった清国には日本の措置に対する強い不満があって、なんどか対日抗議を行ったものの、阿片戦争敗北の後であり、さらにフランス、ロシアからの外患をも抱えるなか、とうてい実力で介入する余裕はなかった。
琉球処分の年6月に、アメリカ前大統領であったグラント将軍が清国に旅行で訪れた際、清国はグラントに琉球問題に関する対日仲裁を頼み、グラントはこれを受けて日本を訪れ、内務卿伊藤博文に問題を提起した。(⑰155頁)
こうして始まった日清交渉で、日本が提案した宮古及び八重山の先島諸島を清に譲り、これに代えて清国から最恵国待遇を得るという「琉球処分条約案」がまとまり、調印の一歩手前まで行ったが、清国側の事情でこれが流れ、交渉は失敗に終わった。日本政府の沖縄への支配が継続しつつも、琉球をめぐる確執は日清戦争まで続いた。
1894年、朝鮮の支配などをめぐる日清戦争が勃発し、日本の圧勝のもとに翌年終わり、下関条約が結ばれた。この条約で、日本は清国から台湾とその付属諸島の割譲を受けた。
この条約交渉において琉球問題が話し合われることはないまま、以後、沖縄(琉球)の帰属をめぐる紛争は自然消滅した(⑩419頁)。実力の差を見せつけられ台湾等をとられるまでに敗北した清国は、くすぶり続けた琉球問題につきなお抵抗・抗議を続ける気力を失ったというべきか。ただ、そのような状況で決着をつけられたので、中国人に琉球問題に関する不満を根深く残し後に再燃することとなる。
その日清戦争の最中、下関条約の半年前に、尖閣諸島の日本編入の閣議決定がなされていた。ただ、下関条約の交渉中に尖閣諸島が話題になることもなかった。
それから年月を経て、1945年の第二次世界大戦の終了前、中華民国総統の蒋介石(写真)らは、日本を敗退させた後の処理として、台湾などを取り戻すことはもとより、日本に奪われた琉球を何らかの形で取り戻すことも念頭に浮かべていた。そうした思いの一端は、1943年11月、蒋介石が米国、英国と戦後処理を話し合った結果のカイロ宣言で「満洲、台湾及澎湖島の如き日本国が清国人より盗取したる一切の地域を中華民国に返還する」との文言に込められていた。 以上が琉球処分にかかわる経過である。
(尖閣諸島への日本の実効支配)
さて本題に入ろう。
わが国は、尖閣列島につき、ここが無主の島々であり、清国の支配が及んでいないことを確認した上で1885年(明治18年)に閣議で領有決定(先占)をした、以来ここを実効的に支配してきており、75年間、中国を始めどの国からも異議が出ていないので、尖閣諸島はわが国が先占により領有権を獲得した、と主張している(①外務省Q&A)。 他の国の支配が及んでいない無人島の領有権を取得する「先占」が有効に成立するためには、現在の国際慣習法上二つの要件が必須とされている。①国家の領有宣言、②実効的支配(平穏かつ継続的な占有)である。尖閣諸島について日本政府は、①について1885年(明治28年)の閣議決定でこれをなしたと主張し(前回のブログ)、さらに②についても、閣議決定以降1971年の沖縄返還のときまで75年間尖閣諸島の占有を継続してきており、これに中国側が何ら異議を述べていないので、日本が「平穏かつ継続的な占有」をしてきたこととなり、②の要件も満たしている、というようである。本稿は、日本がはたして②の実効的支配をしているかの点について検討を加える。(この項22年6月25日加筆補充)
隠居老人は今回いくらか勉強をしてみた。とくに琉球処分の歴史的経過、戦後の米軍統治における主権をめぐる論議などを知るうちに、外務省の見解、とりわけ実効支配に関して小さくない疑問に突き当たった。わが国の尖閣領有権への確信が動揺している。困ったことだ。
なおさらに勉強していきたいが(何か基本的な誤解をしているかもしれないので)、中間報告的意味で疑問をまとめておきたい。
前回は、領有宣言に至るまでにあった政府の「ためらい」をとりあげ、一抹の不安を指摘した。今回またさらに疑問点を指摘するのは、中国、台湾に肩をもつつもりからではない。尖閣問題は戦争で決着をつけるべき問題ではもちろんなく、裁判で白黒つける方法も現実には難しい、とすると、話し合いで解決するほかはない。中国もそれを望んでいる(「ウインウインで」と)。そのためには、お互いの主張を理解し合うこと、「相手を知り己を知る」ことが何よりも大切だと思うからである。この点は大事なところなので、後でもう一度触れてみたい。
国際法の京都大学太壽堂鼎教授(故人)は、「尖閣諸島の領有に関し、中国が仮に歴史的根拠を持つことが認められるとしても、清国、中華民国、中華人民共和国は、尖閣諸島の日本領土編入後75年、台湾に対する日本の統治が終わってからも25年、これになんらの異議を唱えず、むしろ尖閣が沖縄に属することを黙認してきた」と述べている(④203頁)。外務省見解と同旨である。
確かに、尖閣列島では、1885年の日本領有閣議決定の直後ころから、古賀辰四郎がリン鉱石採掘などの事業を行い、そうした仕事に携わる250人近い日本人が魚釣島や久場島に居住していた時期もあり、さまざまな沖縄県の行政措置がとられ、地図にも日本の一部と記載されるなどしていた。戦前のそうした一連の関与状況、すなわちわが国の「実効支配」に中国政府(清国、中華民国)は異議・抗議をしてきていない。そして、戦後になっても、久場島、大正島の2島で沖縄米軍が射撃場として利用しているのに、自国領土を無断使用しているというのなら当然あるべき異議・抗議を、中華民国政府(台湾)も中華人民共和国政府もなんらしていない。太壽堂教授はこうした事態を言っているのである。同趣旨を述べる国際法学者は多く、これに直接反する見解を述べる者はほとんどいないようだ。
そのように言えるのであれば、こうした異議や抗議のないことは、確かに、日本が実効支配すなわち「平穏かつ継続的な占有」があったことの強い裏付けとなり、日本の領有権主張は盤石といえるだろう。
しかし、へそ曲がりの隠居老人は、以前からこの「実効支配」見解に対し少しばかり、のどに小骨のような違和感を持ち続けてきた。今回、琉球処分を改めて勉強してみて、この小骨の正体がわかったような気がするのだ。
(実効支配に対する清国の異議は?)
この抗議等をしていないという経過を清国(1911年辛亥革命で滅亡)の側から見ればどうなのであろう。
① 上記のとおり1879年の琉球処分以来、清国は琉球が日本により一方的に奪われた ことに強い不満をもち、これに抗議等する態度を続けてきた。
②
しかしながら、日清戦争の敗北により台湾等を日本に割譲せざるをえなくなった。そのことを話し合った下関条約(1895年)では、それまでの懸案事項であった琉球問題のことは一切触れられていない。
③
ただ、その下関条約以後、日清間でくすぶり続けた琉球問題は清国側からの抗議等は出なくなり自然消滅したという。
④ (以下、老人の推測になるが)琉球に関する日清間の紛争経過と琉球が日本と台湾の間にある地勢的位置関係からして、台湾割譲を決めた下関での交渉で琉球問題が一切話題にならなかったとみるのはどう考えても不自然に思われる。その記録は残さなかったものの、清国の敗北感情のもとで琉球の日本帰属についても今後異論を述べない趣旨の合意が(暗黙の了解かもしれないが)できたと推測できるのではないだろうか。そのように考えてこそその後に抗議等が出なくなったとの経過に符合する。
そうだとすると、尖閣諸島についても、日清戦争後に日本人(当然琉球人を含む)がここで開拓事情を始めたり行政的措置を加えたりしているのを清国側がこれを知ったとして、あえて自国領土を侵害しているとして抗議等を出せるものであろうか。否、尖閣諸島が地勢的には新たに日本の領土となった台湾と琉球の間に位置することからして、下関会議で割譲されたか、琉球に属し「抗議しない」日本の領土と(になったものと)考えて、抗議等をしなかったと推測するのが合理的ではないだろうか。
すると、抗議等をしないのは自然な態度であって、実効支配を肯認することになる特別な意味のある態度とは言えないのではないか。この状況を「実効支配」すなわち「平穏かつ継続的な占有」の裏付けとみることに疑問といわざるを得ない。
老人のこの疑問は極めて特殊なものかもしれないと思っていたが、似たような考えだと思われる学者の意見に出会った。神戸大学名誉教授芹田健太郎は、「確かに、尖閣諸島に対する日本の実効的支配は明らかであるが、そのほとんどは日本が台湾の割譲を受けた後の台湾統治時代のものである。そのため、中国からの抗議がないものの、無主地占有をした島嶼に対する支配なのか、割譲された地域に含まれる島嶼に対する支配なのか、必ずしも分明にすることができないかもしれない。その意味では敗戦の1945年(昭和20年)8月14日までの日本の行為はいわば凍結され、実効的占有として意味ある行為は戦後のものに限られてしまうかもしれない」と述べている(②156頁)。
(実効支配に関する戦後の異議は?)
次に1945年からの敗戦後の状況を考えてみよう。
日本政府は、戦後も日本を占領したアメリカ軍が尖閣諸島(久場島と大正島)を射撃訓練場として軍事利用をしたり、米軍統治下であっても沖縄の行政府が同諸島にさまざまな措置を加えるなどして実効支配(間接的な形で)を続けていた、とする(上記外務省Q&AのQ3)。そして、沖縄が日本に返還されることになった1971年ころまでの25年以上、中国側からはここでも、このような実効支配に対して何ら異議が出ていない。尖閣諸島の日本領有を支持する国際法学者のほとんども、中国側からの異議のないことを根拠の一つとして日本の実効支配が実現されているとし、これをもって「先占」による領得が完成していると主張している。
隠居老人はここでも土俵下から「ものいい」をいわざるを得ない。
まずなによりも、沖縄地域の主権をめぐる、戦後の日本、米国、中華民国(台湾)の間の主張のからみあいを正確にみる必要がある。
1879年に琉球の日本編入(琉球処分)が強行されたのち、上記のように力関係の差により文句をつけられないまま第二次大世界大戦の終局を迎えた中華民国は、上述のカイロ宣言を皮切りに日本の軍国主義に奪われた台湾などの領土を取り戻す機会を得ることになり、そこに琉球もその一つに加える動きもでてきた。琉球問題の再燃である。
日本が1945年8月14日に受諾したポツダム宣言には、日本の領土として「『カイロ宣言』の条項は履行せらるべく,又日本国の主権は,本州,北海道,九州及び四国並びに吾等の決定する諸小島に局限せらるべし」と規定され、それが実行された。
さらに、1946年1月からは米国を中心とした連合国総司令部の一連の戦後処理措置により、ほぼ北緯30度以南の奄美・沖縄・尖閣地域(以下まとめて「沖縄地域」という。)は、日本国の政治上行政上の施政範囲から外され、米軍が統治支配することとなった。
実は、このときから沖縄地域の領土主権が極めてあいまいとなった。カイロ宣言の「日本国が清国人より盗取したる一切の地域は中国に返還される」との一文が米国をも含めて各国に疑心暗鬼を含めさまざまな考えを呼び起こしていたのである。
日本の領土範囲を決め沖縄地域の米軍管理を定めた1952年のサンフランシスコ講和条約においてもその曖昧さは解消することはなかった(⑦269頁など)。
もちろん、米国と日本には当初から、米国の支配下にあっても沖縄地域にはなお日本の潜在主権が残っていると考える人々のいたことは確かである。しかし、米国はもとより他の連合国の中には、沖縄地域の領土主権については、将来米国か中国に移るかあるいはどこかの国の信託統治に置かれるかは未定にせよ、日本の主権は失われたとする見解もあり、特に戦時中から沖縄地域について、かつての琉球として何らかの形で権原の取り戻しに期待していた中華民国では、中国に返還されるべきだとする世論が強まっていた。(⑦83頁)
原喜美恵研究員は、沖縄地域を米軍が管理することを定めたサンフランシスコ条約3条について「日本による領土主権の放棄を規定していないが、日本の主権を確認するものでもなかった。・・・ダレスは領土の帰属は曖昧にした方が合目的的という考え方をもっていたことがうかがえる。・・・『日本による放棄』規定がないのは、日本を将来の帰属対象からはずさないという意味で、中国や米国の帰属、あるいは独立といった他の選択肢への道を完全に閉ざしたわけではなかった」との見解をしめしている(⑦269頁)
原研究員はまた、中華民国(1949年以降は大陸を追われ台湾に逃れる)の立場について「主権問題については戦中からの立場、少なくとも『沖縄は日本のものではない』という点については一貫しており、・・・機会あるごとに米国に対して自国の立場を喚起している。例えば、1953年11月24日付で中華民国外務省から台北の米国大使に送られた覚書には、次のように記されていた。『中華民国政府は、サンフランシスコ平和条約は日本から琉球諸島の主権をはく奪するものではない、という趣旨の米国の解釈には同意できない。』 」と報告している(⑦270頁)
中華民国は、1953年に沖縄地域の北端の奄美大島が米国から日本に返還されたことに大きな衝撃を受けた。同年11月27日 台湾立法院は、奄美大島が琉球諸島の一部であると立場にたって「日本への返還はサンフランシスコ条約3条の規定に合致せず、かつ事前にわが国政府との協議も行われておらず、ポツダム宣言に違反しており、反対だ」との決議を採択した。続けて12月24日、台湾外交部は奄美群島の日本返還に抗議する声明を出している(⑧85頁)。
1961年6月のケネディ大統領が池田首相との会談で、日本が沖縄の潜在主権を持っているという認識を表明すると、中華民国は「サンフランシスコ平和条約はカイロ宣言とポツダム宣言に基づいて決定されているため、琉球群島は日本の主権範囲の外に置かれなければならない。いわゆる『潜在主権』は国際法に基づいたものではなく、対日平和条約第3条の中にも明記されていないため、認めることはできない。」旨述べてその立場を表明した。(⑨158頁)
1960年代から沖縄での本土復帰運動が高まり、日本政府もこれに取り組むべく本腰を入れてアメリカと交渉するようになった。その交渉中においても、アメリカは、沖縄地域の日本の潜在主権を認めつつも、日本復帰に反対する台湾に気を遣って、沖縄地域の主権をめぐる日中の対立に中立的態度をとり続けた。 沖縄復帰に向け日米交渉が大詰めに来た1967年、佐藤総理(写真)は台湾を訪問し、蒋介石と会うなどして台湾側の了解を求めようとした。その訪問に同行した衞藤瀋吉(国際政治学者)は、佐藤が「台湾の国民政府が返還を黙認するか、あるいは少なくとも言葉だけの抗議にとどめておいてもらわないと困る」と考えていたと書いている(⑧89頁)
(沖縄返還をめぐる米台の態度の背景には)中華民国(台湾)は、戦後、内戦に敗れて台湾に退避するなか、大陸を相手に反撃と防御を続けるために米国に大きく頼らざるを得なくなった。他方、米国は、戦後の冷戦体制に対処するため沖縄地域に軍事拠点を構え、中ソに備える必要が高まっていた。そのために沖縄地域の主権を日本に戻し、日本から基地の提供を受ける必要が、政治的安定性を欠く台湾に沖縄地域の主権を与える利益(軍事基地の提供が受けられる保障さえない)より格段に大きいことが分かってきた。米国内に沖縄の日本返還を検討する意見が強まり、台湾へ配慮する意向が小さく形式的なものになって行った。しかし、台湾にはもはや、沖縄返還に動く米国および日本に抗議し制止する力はなくなったのである。
(結局、実効支配は?)
以上かなり詳しく紹介した。1949年に建国した中華人民共和国(大陸)はともかくとして(尖閣を除く沖縄地域の日本返還には問題ないとしてきた)、清国のあと中国の政権を担ってきた蒋介石の中華民国は第二次大戦後、沖縄地域の主権が日本に帰属することについて、強弱があって最後は尻すぼみにはなったものの、領土主権の帰趨を左右する米国に対して、度々異議を述べ、抵抗の姿勢を示してきていたのである。
確かに、そのような異議申し立てのなかで尖閣諸島の帰属を個別に触れることはなかった。しかし、日本やアメリカが戦前の日本の行政にならい尖閣諸島を沖縄地域に含ませていたので、台湾も沖縄地域(琉球)に関して見解を述べるとき、その取扱いに従い、尖閣諸島を除外せず、沖縄地域の一部として扱っていたのである。尖閣諸島を含んだ沖縄地域が一体として台湾側の念頭にあったことは明らかである(⑯120頁)。そうすると、沖縄地域の領土主権が日本に帰属することへの中華民国の異議は、尖閣諸島の日本帰属への異議をも当然に含んでいたと理解せざるをえない。
そうだすると、日本の尖閣諸島実効支配に対して、中国側が1971年の沖縄返還のころまで戦後25年以上、何らの異議を述べたり抗議することはなく、むしろ黙認していたという日本政府や多くの国際法学者らの意見は、疑問と言わざるをえない。少なくとも中華民国(台湾)は、戦後一貫して、尖閣諸島の日本帰属に反対、疑問を呈してきているのであって、とうてい、黙認などといえるものではなかった。
戦後25年以上の沖縄地域に対する米国の統治支配の実態と日本政府のかかわりの小ささからみて、尖閣諸島を実質的に占有支配していたのは、むしろ米国だといえる。その米国の占有行為も、日本に代わってのものかと言えば必ずしもそうではなく、台湾その他連合国(戦勝国)に代わってという一面もあったのである。日本の実効支配なるものは「潜在」といわれるのも当然、米国の陰にかくれたきわめて薄いものであった。老人は、そもそも間接的というのも適当かどうかわからない、そうした希薄な「支配」が、はたして「先占」を効力あらしめるための「実効支配」すなわち「平穏かつ継続的な占有」に該当するのか、との疑問さえ禁じ得ない。
以上、るる述べてきたのは、尖閣諸島に対する日本の「先占」領有の主張のなかにある弱点と思われる点である。先にふれたとおり、これを指摘するのは、尖閣をめぐる日中台間の領土紛争について、中台の主張を応援するつもりではない。互いの主張の理解を深めたうえで、紛争を話し合いにより解決することを願ってのことである。和解の話し合いには「相手を知り己を知る」ことが大事である。にもかかわらず、とかく私たちは相手の弱点は知り抜いても、己の側の弱点の無自覚な場合が多い。そうした姿勢が互譲解決を遠のかせることを隠居老人は心配する。
(国際法学者らも「話し合い」の大切さを強調)
実は、その著作でわが国の主張支持の論陣をはっている国際法学者たちも、法的判断だけで紛争の解決はできず、話し合いの大切さを強調しているのである。老人はそのような国際法学者を尊敬する。
太壽堂鼎教授は、
「韓国や中国には、日本の措置に対して事実上抗議できなかったか、抗議しても無益であったからしなかったのだとする感情がある。このような感情を無視して国際法上の権利ばかりを主張するのは適当でない。竹島や尖閣諸島は島自体に価値は乏しく、要は周辺水域の生物資源と海底鉱物資源の配分をどうすべきかが問題点である。そこで、相手国にも問題解決のために譲り合う精神がありさえすれば、法とともに衡平の考慮をはたらかせて解決を導く可能性がでてくるのではなかろうか」。 (④206頁)
尾崎重義教授は、
「以上のように、尖閣諸島がわが国に帰属することは国際法的に見てほとんど問題がない。今後もわが国は、尖閣諸島の領有問題に関しては、中国に対して、わが国の正当な権利を友好的に主張していくべきであろう。そして、その場合、法理を尽くして地道に相手側を説得する態度が必要であろう。領土問題については、安易に姑息な解決をとらす、冷静な話し合いを通じて、法にかなったけじめのある処理をしておくことが、結局、将来に禍根を残さない最良の解決となると言えよう。尖閣諸島の帰属問題が今後どのような経過をたどるか予測の限りではないが、日中双方が互譲的な態度で話し合い、合理的な解決がはかられることを期待したい。 (⑤(下の二)173頁)
芹田健太郎教授は、
「まず、尖閣諸島については自然保護区設定と大陸棚共同開発の一括処理を提案する。日中両国とも互いに大陸棚を要求して尖閣諸島を争うことをせず、かつてバカ鳥といわれたほど多数生息していたアホウ鳥の乱獲の償いに、尖閣諸島を自然保護区とし、同時に経済的協力による大陸棚共同開発を行うという一括処理を行う。それによって、尖閣諸島をかつてそうであったように、再び静かに眠りにつかせ、日中双方ともに、尖閣諸島周辺大陸棚の共同開発により互いに実をとるのが最善の策となるであろう。領有権のみを問題とするのではなく、関連事項の一括処理のみが最終的解決をもたらす手段となるであろう。(②279頁)
松井芳郎教授は、
「尖閣/釣魚台問題について紛争は存在することを認める次に日本が行うべきことは、第三者機関への付託の可能性を含めて中国と交渉のテーブルに着くことだと思われる。そうすることは、両当事者間の直接交渉を一貫して主張してきた中国の軍門に下る印象を与えるかもしれないが、そうではない。それは、現代国際法のもっとも重要な基本原則の一つである、紛争の平和的解決義務を遵守することに他ならないのである。(166頁)
「紛争解決のために考慮しなければならないのは国際法だけではない。国際紛争は一般に、法的側面のほか、政治的、経済的、文化的などの側面を有する多面的な性格のものであって、法的側面は他の諸側面と切り離してそれだけで解決されるものではなく、また、その解決は重要ではあっても紛争の解決と同義ではない。(③167頁)
大沼保明教授は、
「竹島、尖閣列島に関しては、純粋に国際法の観点からみた場合、韓国、中国の主張はかならずしも強固なものとは思われない。他方、歴史的経過を含む「正義」という観点からみれば、「北方領土」問題に関するロシアの主張は説得力あるものとは言い難く、竹島、尖閣諸島に対する韓国、中国の主張にも一定の根拠を認めるべきかと思われる。・・・国際法は紛争を一刀両断に解決するものではない。しかし、国際法の観点を取り入れ、問題を国際法の文脈に位置づけることにより、紛争当事国双方の主張の総体的な正しさと説得力が明らかとなり、紛争の激化を防ぎ、平和的解決を促進するものとなりうる。・・・「双方不満ならよい条約」という外交格言がある。ここで「双方満足なら」ではなく「双方不満なら」というのが大切なところである。それは、利害、価値観、歴史認識、感情を異にする国家間の合意というのは途方もなくむずかしいものであり、双方が同じように不満ならそのような合意をもって良しとすべきだという教えをわれわれに示してくれる。それは飲み込みにくい真実である。しかし、とても大切な真実なのである。」(⑥323頁) (おしまい)
参考資料
①
外務省 「尖閣諸島に関するQ&A」 (インターネット)
②
芹田健太郎 「日本の領土」 中公文書
③
松井芳郎 「国際法学者がよむ尖閣問題」 日本評論社
④
太壽堂 鼎 「領土帰属の国際法」 東信堂
⑤
尾崎重義 「尖閣諸島の帰属について」(上)(中)(下の一)(下の二) 国会図書館「レファレンス」
⑥
大沼保昭 「国際法」 ちくま新書
⑦
原 喜美恵 「サンフランシスコ平和条約の盲点」 渓水社
⑧
石井 明 「中国の琉球・沖縄政策」―
琉球・沖縄の帰属問題を中心に (インターネット PDF)
⑨
成田千尋 「沖縄返還と東アジア冷戦体制」 人文書院
⑩
苫米地真理 「尖閣問題」 柏書房
⑪
村田忠禧 「史料徹底検証
尖閣領有」 花伝社
⑫
エズラ・E・ヴォ―ゲル 「日中関係史」 日本経済出版社
⑬
R.エルドリッチ 「尖閣問題の起源」 名古屋大学出版会
⑭
五百旗頭真 「米国の占領政策」(上) 中央公論社
⑮
豊下楢彦 「『尖閣問題』とは何か」 岩波現代文庫
⑯
羽根次郎 「尖閣問題に内在する法理的矛盾」 「世界」2012年11月号
⑰
矢吹 晋 「尖閣問題の核心」 花伝社
⑱
森川幸一ほか 「国際法判例百選」第3版 有斐閣 など
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