1885年(明治18年)、井上薫外務卿は尖閣領有をためらった!!
(尖閣諸島は日本のもの)
尖閣諸島については、日清戦争開始半年後の1895年1月の閣議決定によって日本の領有が定まった、とするのが日本政府の考えである。慎重に調査を重ねて同諸島がどの国の占有も及んでいない無人島であることを確認した上での「先占」の措置であって、その領有権取得に異論の余地はなく、日中間に領土問題はないという。
そこで言われる「先占」とは、無人の島については先に見つけて支配した国に領有権があるとする「国際慣習法」上のことである。日本政府の尖閣領有根拠については国際法学者を含む多くの国民の支持するところとなっている。
これに対して、中国は、日本政府の閣議決定のはるか以前から、琉球との往来のための航路標識としてあるいは台湾漁民の漁場として、尖閣諸島を利用してきているので、これを「先占」あるいは「実効支配」していたのは中国だと主張し、中国に領有権があるとする。
老人は、最近、1885年前後の尖閣諸島の日本編入のいきさつに関するいくつかの本を読み、興味深い歴史的事実を知った。そして、尖閣領有権問題がゼロサム的な一刀両断の法的解決に向かない性格のものであり、互いの譲歩による政治的解決こそが求められるのではないかと、改めて考えさせられている。
以下に、横浜国立大学名誉教授村田忠禧著「史料徹底検証 尖閣領有」(花伝社・2015年刊)に依拠してその興味深い歴史の大筋をまとめてみる。
(国標を設置せよ)
第4代沖縄県令(今の知事)西村捨三は、内務省から「沖縄県近海の無人島を巡視取調べてそれが沖縄県に所属するならそこに国標を設置せよ」旨の内命をうけ、調査したうえ、1885年(明治18年)9月22日付で内務卿山県有朋宛に回答をした。その要旨は「久米赤島、久場島、魚釣島という呼び名は本県における名称であり、八重山などの群島に接近している無人の島嶼なので、沖縄県に所属しているとしてもさしつかえないようですが、大東島(沖縄と小笠原諸島との間にある)とは地勢も異なり、『中山伝信禄』(清国の書)に記載されている釣魚台、黄尾嶼、赤尾嶼と同一である疑いもあります。もしも同一である場合には、清国が旧中山王(琉球王)を冊封するために派遣した使節の船が詳しく知っているだけでなく、それぞれの島嶼に名称もつけ、琉球航海の目標としてきたことは明らかです。したがって、大東島と同様に国標を建設することはいかがかと懸念せざるをえません。国標建設の件については、なお指揮をいただきたい」というものであった(63頁、なお当時「久米赤島」と呼ばれた島はその後「大正島」と呼び名が変わった)。
(西村県令回答の真意)
当時、沖縄県は1879年(明治12年)にいわゆる琉球処分(鹿児島藩に編入)があって、その廃藩置県に不服な琉球の旧士族ら百数十名が元の宗主国である清国に脱出して、その政府に「日本が暴力をもってわが琉球を横取りし、万民、塗炭の苦しみを味わっているので、一刻も早く救援していただきたい」と嘆願し救援を求める運動などをし(37頁)、清国の側でもこれに応ずる動きがあるとの噂もあって、一時期民情穏やかでなかった。西村県令は、内務省の上記内命が、ようやく事態が平穏化してきてきた沖縄に、小さな無人島のことでまた騒ぎを起こして、琉球王国の復活を求める人々の動きをはげまし、また清国政府に日本政府非難の口実をあたえることになるのではないかと懸念していた(55頁)。
村田教授は、西村県令の上記回答を、山県の内命を明確な形で批判することはできないし、あからさまに拒否することもできなかったが、「命令を再検討していただきたい、内心は撤回してほしい」と訴えている、と読みといている(63頁)。
西村県令らからこうした回答を受け取ったにもかかわらず、山県内務卿は、10月9日に「中山伝信禄に記載があるにしても、単なる航路の標識にすぎず、清国の所属である証拠とは思えない。名称がついているといっても、双方の呼び名が違うだけのこと。距離的には宮古、八重山に近い無人島なのだから。久米赤島他二島の無人島に国標を設置することは差し支えない。至急詮議にかけていただきたい」旨の太政官上申案を作成し、井上薫外務卿の意見を聞くことにした。
(井上外務卿の山県への回答)
井上外務卿は12日間もの熟慮期間をおいたのちに、山県の予想に反した回答をした。その要旨は「これらの島嶼は、清国の国境にも近接しており、ことに清国ではそれらの島に名称もつけている。近頃、清国の新聞に、わが政府が台湾近傍の清国所属の島嶼を占拠しようとしているとの噂を掲載して、わが国に対して猜疑の念を起こさせ、しきりに清国政府に注意を促している動きもあることなので、この際、急に国標を建設するなどの処置を公然と行った場合には、清国の疑惑を招く恐れがあるので、国標を立てて開拓等に着手するのは、他日の機会に譲ったほうが適当と思われる」というのであった。井上のもとには、さきの西村県令の回答書のほかにも、部下からの「不要の紛糾を避けた方がよい」旨のメモ書きの提言もきていた(65頁)
その後、さらに山県・井上間のやりとりを経て、12月5日、山県内務卿が「無人島への国標建設の件は目下のところ建設を見合わせる」旨を三条太政大臣宛てに内申して、この時期の正式の結論となった(79頁)。
(日清戦争、標杭建設決定)
それから9年後の1894年(明治27年)7月に日清戦争が勃発し、日本は同年9月の段階では連戦連勝の局面を作り出していた。戦争での圧勝が確実になったので、もはや清国の対応を懸念する必要がなくなった。内務省はそれまで棚上げにしていた「尖閣諸島国標設置問題」の再検討を始めた。
時の内務大臣野村靖は外務大臣陸奥宗光に「国標建設の件は見合わせとなっていました。明治18年の『其当時と今日とは事情も相異候(あいことなりそうろう)に付き』、問題はなかろうと思いますが、一応ご意見を伺います」旨の問い合わせをした。これに対して陸奥は「別段異議なし」と簡単に答えた。
そこで、内務省は内閣の承認を得る手続を始め、1895年1月21日の閣議において、沖縄県知事が上申してきた標杭建設の件は「別に差し仕えもない」のでこれを許可する旨の決定を得るに至った(117頁)。これが尖閣列島の日本領有を決めた閣議決定である。
(村田教授の多いなる疑問)
村田教授は「日清戦争の大勝利を背景に、清国が今や何事も日本政府の意向に従わざるを得ない状況に陥っていたのを幸い、日本は、後に下関条約で台湾等を獲得するまでに冷徹かつ貪欲に清国に接しようとしていた矢先、尖閣諸島についても、標杭を許可したところで、『別に差し支えないから』、不都合は生じないから、という、実にいい加減な理由で閣議決定を行った」旨厳しい評価を下している(117頁)。
(現在の外務省説明)
現在、日本の政府(外務省)は、中国が尖閣諸島の領有権を主張しているのに対し、①1895年の上記閣議決定により尖閣諸島の日本領有を決定し、以後有効に支配している、②その取得根拠は「1885年から日本政府が沖縄県当局を通ずる等の方法により再三にわたり現地調査を行い,単に尖閣諸島が無人島であるだけでなく,清国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重に確認した上で」閣議決定したもので、この行為は、国際法上、正当に領有権を取得するためのやり方に合致している(先占の法理)、などと説明している(外務省・尖閣諸島に関するQ&A)。
(疑問)
日本政府の尖閣諸島領有権の根拠については、従前からも、1895年の閣議決定は、通常なら領有権争いが生じかねない国に問い合わせるとか、この決定を内外に公表するなどして諸外国に知らしめることが必要なのに、官報にも新聞にも掲載させず内密にしていたことは、領有宣言の効力を疑わせるものではないか、との有力な疑問が出ていた(佐藤優「新戦争論」文春新書190頁)(なお村田・上記本119頁以下も)。
加えて、村田・上記著書は、外務省が「清国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重に確認した」とする点についても、ほとんど調査をした形跡のないことを説得的に論証している(45頁以下)。
(勉強課題)
隠居老人は、上記の歴史的事実、特に清国と琉球の間には長年の宗主国・冊封関係があったこと、両国間の船舶の往来が頻繁であったこと、そのなかで清国(もちろん琉球も)は尖閣諸島を航路標識として利用していたこと、そのせいもあってか、中国の古地図には尖閣諸島について「釣魚台」「黄尾嶼」「赤尾嶼」などの中国名のもとで掲載されていること、そうした背景を考慮して1885年段階では日本政府は尖閣諸島の日本編入を躊躇したこと、これらの事情は、その領有問題を考えるとき重視せざるを得ないものではないかと考える。
たしかに、無人島などにおいては、国際法上「先占」の事実が最重要の要件とされている。しかし、その「先占」を、どういう行為・事実をもって認定するのか、一義的には決め難いものがあるのではないか、その決め方如何によっては、中国の主張する「航海上の航路標識」なども無視できない意味をもつかもしれない。
この点を考えさせてくれる国際法関係の本もあるようだ。勉強してみたいと思う。(ひとまず了)
ご老人さま
返信削除小林哲夫より
尖閣問題の貴記事を読みました。
法律の専門家の論を勉強させていただいて、助かりました。
この論に従って、日本のあるべき主張を考えると、私は棚上げ論が妥当だと思うのですが、如何でしょうか?
そしてこの次にお願いしたいのは、このような法律論を南シナ海の人口島についても書いてもらいたいということです。
私のつたない理解を次に書いてみます。
人工島について、国際裁判で中国の領有権は主張できないと国際裁判の判決があった、と聞いていますが、だからと言って人工島が全否定されたのではないと考えます。
領有権は否定されたけれども、だからと言って他国がこの島を破壊する権利を認めたことでは無いと思います。
人工島を建設してしまったことは、国際慣行であった先占に近い権利はあるのではないか?と思うのですが如何でしょうか?
また現在は実効支配している、という見方も出来るのではないでしょうか?
つまり判決は全否定ではなく、中国の権利の幾分かはあるのでは無いか?と思っています。
つまり最近まで認められていた先占の権利は、海洋の有効活用のために今でも認められるのが、前向きの法理論ではないかと思うのですが、如何でしょうか?
コメントありがとうございます。ご趣旨はよく理解できます。小林様のご意見も含めて南シナ海問題についても、ウクライナ戦争を経験したあらたな世界情勢にもかんがみ、なお勉強し考え、理解を深めて、いずれ投稿したいと思っています。
返信削除