J・ケナンは講和後の日本の非武装・中立を構想していた! 私の勉強ノート(1)

ジョージ・ケナンは、外交官としてソ連などに勤務したあと、第二次世界大戦後は、1940年代の後半アメリカ国務省にあって、米ソ冷戦に臨む政策担当の要職につき、いわゆる「ソ連封じ込め」政策を提唱・推進するリーダーであった。冷戦初期のアメリカ外交についてはケナンを外して論じることはできない。それほどに有名かつ有力な外交・政策の担当者であった。1950年に国務省から身を引いた後も、学者・研究者の立場から長くアメリカ外交を見守ってきた。 


老生はケナンの仕事と評判ついては、漠然と上記程度のことしか知っていなかった。戦後日本は、占領から1951年の講和条約にいたる過程で、新憲法による非武装・中立の理想を敬遠するようになり、アメリカと単独講和を結び、ソ連封じ込めに追随して再武装する道を模索しはじめていた。当然ながらケナンは、ダレス国務長官らとともに日本をその方向に導く重要な役割を果していたにちがいないと思い込んでいた。

ところが、ケナンについてはどうも違うようである。最近、ケナンの「アメリカ外交50年」(1983年刊行)を読んで、彼の当時の認識と構想をはじめて知り、いささか驚いている。主な点を箇条書きし、本文の要旨を添える。 

1  ソ連封じ込め政策は、スターリン的共産主義の政治的拡大の危険に対処するためのものではあるが、西側諸国への軍事的攻撃の危険があるとは考えていなかった。
       (要旨) 「封じ込め」の概念は私が提唱したものである。モスクワに指導される共産主義者らがドイツや日本の先進工業国で支配的地位につく危険に対処するためであった。私やソ連をよく知る人々は、ソ連が西側や日本に軍事的攻撃を加える危険があるとは考えていなかった。ソ連からの危険は政治的なものであって、軍事的なものではなかった。そのことはその後の歴史が証明している。 (240頁)
                

2  マッカーサー元帥は、日本を永久に非武装・中立の国にしたいと考えていたようであるが、私はその方針を堅持すべきだと思っていた。
  (要旨) マッカーサー元帥は、占領初期に敗戦日本に対するアメリカの政策を決定する上でもっとも影響力のある人物であった。彼は当初、日本を永久に非武装化された中立国にしようとしていたように思われる。私もアメリカはマッカーサー元帥の方針を堅持すべきだと考えていた(1983年の現在でもそう思っている)。日本を中立・非武装にするということは、アメリカが日本を軍事的基地として使用できないことを意味している。そうなれば、ソ連にとって大きな利益になるので、アメリカの譲歩に対するお返しとして、ソ連は自国の影響力の強い朝鮮に民主主義的選挙による政府を樹立することを喜んで同意してくれる可能性があるのではないかと私は考えていた。(239頁) 

3  ところが、アメリカ政府首脳は、ソ連が第三次世界大戦となるかもしれない戦争を始める危険があるとの誤った判断をするに至った。
  (要旨) いまだに私にも理由がわからないのだが、1949年までにアメリカ政府は、ソ連がかなり近い将来、第三次世界大戦となるかもしれない戦争を始める危険があるとの結論に達したように思われる。私はそのような見方に反対であったし、私の同僚のチャールズボーレンも同じであったが、二人とも説得に成功しなかった。ソ連のような強力な軍事力をもつ国であっても、そのもたらす政治的脅威が必ずしも軍事的な脅威と結びついているわけではないのだが、多くのアメリカ人にとって軍事的な脅威でない場合もあるという考え方は受け入れ難かった。その柔軟性を欠く考え方が政府に浸透し、ソ連の軍事的脅威と戦争への危機感を募らせたのであろう。また、とくに軍関係者のあいだでは、スターリン時代のソ連指導者がアメリカに敵意を抱いていたために、また彼らが強大な軍備を持っていたために、さらに彼らがアメリカの世界における指導力に激しく挑戦していたために、ソ連の指導者はナチのような連中であり、アメリカに対する戦争を欲し企んでいるのだと考える傾向があり、それ故にソ連に対する政策はナチに対してとるべきであった態度と一致しなければならないという結論になったように思われる。その考えはどちらも誤っていた。 (240,241頁) 

4  アメリカ指導層のこの考えの変化が、日本を非武装のままにしておくことはできない、という感情を起こさせた。
 (要旨) いずれにせよ、アメリカの指導層の意見にあらわれたこの変化は、1949年終りから1950年初めにかけて起こった。そしてそこから生じた最初の結果は、アメリカの軍部および政府の上層部に、日本を非武装のままにしておくことはできない ― たとえ日本とアメリカがソ連の参加しない形で平和条約(講和条約)をむすぶことになったとしても、日本にアメリカの軍隊を無期限に配置しておかなければならない という強い感情が高まったことであった。 (241頁) 

5  これらアメリカの考えや政策の変更が、ソ連に直接に反応を呼び起こし、北朝鮮が韓国に攻め入ること(朝鮮戦争)を許容することになった!
 (要旨) もし日本が無期限にアメリカの軍事力の根拠地であり続けるとすれば、モスクワは、その見返りとして、アメリカがさほど関心を示しているように見えなかった朝鮮において、その軍事的・政治的地位を強化しようという気になった。そのためソ連は、北朝鮮に対して、共産主義の支配を全朝鮮半島に拡大しようとする意図をもって韓国を攻撃することを、奨励しないにせよ、許容する姿勢をとるにいたった。私の見る限り、これが朝鮮戦争の起源だと信じている。こうした事態に至る過程で、米軍が日本に駐留継続をしない方針でソ連と交渉していれば、朝鮮戦争も回避され得たかもしれず、それができなかったことは、アメリカ政府において、ソ連をひたすら悪の権化だとみなしていて、交渉を持ったり、場合によっては妥協することもよしとする相手とは考えていなかったことが原因であり、それはアメリカ外交の欠陥であった。 (242、243頁)

(感想)
ケナンの「アメリカ外交50年」を読んで、以下のようなことを学び感じた。
まず、講和後も米軍が日本に駐留を続ける方針が明確になったことで、ソ連は北朝鮮に南への侵攻を許容するなどし、この因果関係がもとで朝鮮戦争が開始されることになった。この点は常識をくつがえす、まさに驚くべき歴史認識である。ただ、ケナンも自認するように、他に支持する人が見当たらない独自の見解のようである。この歴史認識は、情況的には確かに合理的な推認といえる感はある。しかしながら、ことは現代国際政治に影響をあたえかねない重大な事実だけに、ソ連側が北朝鮮に「侵攻の許容」などをしたかどうかについて何らかの証拠が発見されない限り、確実な歴史的事実とみなすことはできないであろう(スターリン時代の情報開示が進めば、裏付けるか否定するかの資料が見つかるかもしれない)。この因果関係を前提として、今後の国際政治に関して何らかの教訓を引き出すことはまだ慎重であるべきであろう。 

 次に、ケナンらは、アメリカの国民世論や政府の多数意見に反し、ソ連を封じ込めるのに、政治的あるいは経済的対応にとどめ、軍事的措置には賛成しなかったようである。これには、いかなる封じ込めがどのような成果をもたらすかについてケナンならではの予測判断があったのであろう。どういう根拠からその判断にいたったのか、なお詳しく勉強してみたい。さらに、その判断の基礎には、ケナンの歴史観、外交観、社会観、人間観、さらには哲学、宗教があったにちがいない。ケナン自身の回顧録(上)(下)(1972年刊、「アメリカ外交50年」の考えを詳しく展開しているようだ)もあるし、ジョン・ルカーチの評伝もある。ぜひ読んでみたい。その評伝の冒頭部分に「彼は非凡な人であり、アメリカ人の国民性に見られる最善で最高の特性のいくつかを表象し、体現した」とある。いかなる点で最善、最高であったのか。 

 さらに単独講和(アメリカを中心とした国々との)か全面講和(ソ連も加えた連合国全体との)かは、占領体制の終わる日本の今後の進路を決める上で極めて大きな選択であった。1950、51年のわが国世論を二分する政治闘争が展開されていた。51年9月調印のサンフランシスコ条約は、ソ連を除いてアメリカを中心とした連合国との間の単独講和となり、同じ日に日米安全保障条約も締結された。日本の従属関係が批判される今日の「日米同盟」の基礎はこうして生まれたのである。
 雑誌「世界」の1950年12月号に、平和問題談話会による「三たび平和について」という論文がある。平和問題談話会は単独講和に反対し全面講和を求める東西の著名学者らの集まりであった。安倍能成、和辻哲郎、蝋山正道、矢内原忠雄、都留重人、末川博、桑原武夫らキラ星のごとき著名学者数十人の名前が連なっている。論文は、当時まだ若き新進気鋭の丸山眞男が筆をとったといわれる。戦争を繰り返さず平和日本を築いていくために、単独講和は「相対峙する陣営の一方に全面的に身を投じることが、世界平和の確保のためにも日本国民のためにも、望ましくない」として、全面講和の必要なことが諄々と説かれている。今読んでも感動を禁じ得ない名論文である。
 当時、ケナンらの見解、すなわち、軍事的封じ込めはせず、ソ連との話し合いうえ日本の非武装・中立の道をさぐる必要を説いた見解が、日本に知られていれば、全面講和を主張する世論をどれほど勢いづけたであろうか。歴史に「if」を求める空しい議論ではあるが・・・。 

 それにしても、現代において、1950年前後の講和条約をめぐる歴史を執筆する研究者らが歴史的に貴重なケナンの見解(上記1、2、5のような)をどれほど紹介しているのであろうか。
 ここに慶応大学教授・細谷雄一著「戦後史の解放Ⅱ 自主独立とは何か 後編 冷戦開始から講和条約まで」と題する新潮選書(2018年刊)がある。私は、講和条約前後の歴史を知りたいと思い、ケナンの本を読む前にこの本をかなり丁寧に読んだ。この本には、57頁から82頁まで25頁にもわたって「ジョージ・ケナンと日本」の項としてページがさかれ、占領期日本でのケナンの活動などが書かれている。最初ここを読んだときは格別の印象は残らなかった。ケナンの「アメリカ外交50年」を読んだ後、この部分を見直してみると、なんと(!)上記1、2、5のようなケナンの独自の見解に一言も触れていないではないか。「アメリカ外交50年」はすでに出版されており、これも読んでいるはずなのに・・・。単独講和から日米同盟に突き進んで吉田内閣以降の保守政権が進めてきた道を絶賛する細谷教授にとって、ケナンのこうした見解は「耳障り」なものであったろう。細谷教授がまちがいなく読んだ「ケナン回顧録(上)」には「われわれは早晩、ソビエトとの間に西北太平洋地区の安全保障についてある種の広範な了解に到達できるだろう、という希望をもっていたからである。そういうことになれば、アメリカ軍の日本駐留も必要がなくなるはずだからである」との記述もある(368、369頁)。これらは教授が25頁も費やして書いたタカ派・ジョージ・ケナン像とあまりにも違っている。学者であるなら、この違いを説明しないことにはケナンの行動を正しく評価したことには絶対にならない。教授の学問姿勢に不信はまぬがれない。「御用学者」を絵に描いたよう、といえば言い過ぎであろうか。

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