「ローマの休日」と9条の精神
先日テレビで「ローマの休日」をみた。もう何回目だろうか。数年ぶりの今回もやはり楽しい映画だ。いつ見ても、ひからびた老生をもウルウルさせる心やさしさが一杯つまっている。オードリーヘプバーンとグレゴリーペックの名演技、個性あふれるわき役たち・・・。
記者の一人が「国家間の友情について、どのような展望をお持ちでしょうか」と質問する。王女は前日のお茶目なアバンチュールで知りあったブラドリーへの淡い恋心を断ち切ろうとする。つらい場面である。それでも、凛とした表情をとりもどした王女はブラドリーの方を見ながらやわらかに「私は国家間の友情を信じます。人と人との友情を信じているように」と答える。見つめ合う二人の何とやさしくもいとおしい表情・・・
とたん、老生の胸に「これって、9条の精神ではないか」、そんな思いがよぎった。
非武装をうたう憲法9条を支える前文、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」、あのフレーズ。映画のこのシーンもいくどもみてきたが、この連想に今回あらためて新鮮な感動をおぼえたのである。
この映画は1953年の公開。第二次世界大戦が終わって間もない時期である。戦争の惨禍の記憶は新しい。平和への願いは強い。だが、その後の米ソ冷戦は人々に暗い影を落としている。他方、欧州では戦争を防ぐための国家共同体構想が動きはじめた。記者の質問にはそんな時代背景があったのだ。王女のメッセージは人々の平和への願いである。映画はそう訴えたかったにちがいない。
老生の連想はつづく。オードリーヘプバーンもあの恐ろしい戦争の被害者なのである。1944年9月ナチスドイツがオランダを支配していたとき、連合国軍の港の閉鎖や食糧補給路の寸断により、オランダ西部地域は深刻な飢餓状態に陥った。住民はパンとジャガイモだけの一日700キロカロリー程度の食糧しかとることができず、冬の寒さの影響もあり、1945年5月、連合国軍によって解放されるまで2万2千人が餓死したという。「オランダの飢餓」と呼ばれる事件。この飢餓の間に母親の胎内にいた人は、成人になってから健康問題を抱える率がかなり高く、遺伝学の研究上、悲しくも貴重な人類経験となった。
15歳のオードリーはその恐ろしい飢餓のときを体験したのである。
オードリーは、1993年に63歳で他界するまでの数年間、ユニセフ親善大使として精力的にその仕事に取り組んだ。子ども時代のこの飢餓経験を含め貧しく不自由な「牢獄のような生活」を送ったオードリーはいう。「ユニセフとかかわれるなんて幸せだった。私自身が第二次世界大戦の直後にユニセフから食べ物や医療の援助を受けた子どものひとりだったから」。
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返信削除ご老人さま
削除ローマの休日感想
映画のラストシーンで王女役のヘップバーンは「私は国家間の友情を信じます。人と人との友情を信じているように」と答える。
これは正に九条の精神=「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」だと思います。
アメリカ人がこのような理想を映画化した一時期があったのですが、今はそういうアメリカ人は居ないのでしょうか?
戦後70年間で西側国際世論は、ロシア・中国を敵視して、戦争準備に忙しい国になってしまいました。
その原因を私は国連の役割期待に間違いがあったからだと思います。
現在世界の人は、侵略戦争を起こす国があったら国連が警察力を行使して鎮圧するのがその役割だと期待していると思います。
国連が戦争によって、侵略戦争を鎮圧する役割を期待されています。
この考えが間違いだと思います。
この考えの故に拒否権が国連を機能不全にしており、国連の機構改革が必要だという考えが浮かびます。
しかし国連が武力によって、侵略戦争を抑え込むべきだという考えが間違っています。
これはヘップバーンが言った「国家間の友情」とは根本的に違います。
世界平和は国連の役割への期待から見直さねばならないと思うのですが、如何でしょうか?
ご老人さま
削除前のコメントはどうも解りにくい文章になってしまったので、もう一度書き直しました。
国連の役割についてです。
多くの人は国連の役割は、世界の警察官になって、侵略国家を武力で抑え込むことと考えていて、それを実行するためには現行国連規約の拒否権制度が邪魔になっているから、これを無くする改正が必要だと考えてます。
私はこれは戦争によって戦争を抑え込むということで、これでは戦争はなくならないと思います。
世界から戦争をなくすためには、九条の精神=「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」の精神でなければなりません。
この信頼の精神は単なる理想ではなくて、この精神のない国連では、結局核戦争を招きかねない時代に生きているからです。
これは正義のための戦争であっても、戦争ということは絶対にしてはならない、ということを意味しています。
日本でも世界でもこの考えをいう人を見たことがありません。
ぜひとも貴兄に理解してほしいと思って書きました。