(敵基地攻撃能力) 平和外交こそ解決の道
先日、作家の加賀乙彦氏が亡くなった。老生は、名作「宣告」以来、彼の作品が好きだった。戦争の時代を背景とした「錨のない船」と「永遠の都・7部作」は2回づつ読んでいる。前者は、真珠湾攻撃の直前まで米国で和平交渉に携わった来栖三郎大使をモデルに大使の苦悩と一家の悲劇を描く。後者は、作者自身をモデルに戦争の時代を生き抜いた一族の苦難を描く大河小説である。半藤一利氏らの本で学んだ戦争への道が、いかに人々の苦しみと悲しみをもたらしたか、これらの作品で実感することができた。そして戦争を憎み厭う気持ちを新たにしたものである。
「来栖三郎」から今日的テーマ「平和外交」に想いが飛ぶ。
☆ 今回、政府が自衛隊に敵基地攻撃能力(反撃能力)を保有させようとする背景に、「中国の脅威」があることはまちがいない。 その攻撃を抑止するために軍事的強化が必要と考えるのである(抑止の理論)。
☆ この抑止の理論を批判するのは、そうやさしくない。なにせ欧米では常識的ともいえる防衛理論であり、日本政府に取り入れられ国民も影響を受けて久しいからである。
☆ ただ、わが国には、この抑止の理論とは真逆の「憲法9条の精神」がある。万が一、わが国に脅威を及ぼす国が現われても、「平和外交によって脅威を除去」する方法で対処する、との考えである。このことを改めて思い起こしたい。
諸国民との融和、協調があれば、戦争、戦力を放棄しても、国民の安全と生存が維持できると考えたのである。「抑止の理論」とは全く異なる。
わが国の周辺にもしも「脅威」を及ぼす国が現われたら、外交によってその「脅威」を取り除き、これにより平和を取り戻せ、と憲法9条は命じているのだ。
☆ わが政府は、自衛隊を設立してから兵力保有を正当化するものが必要となった。憲法9条はもちろん役に立たない。代わるものとして「脅威」と「抑止の理論」が取り入れられた。次第にこの考えが大手を振るようになってきた。そして「平和外交による脅威の除去」という「9条の精神」は影が薄くなり、主役の地位を失っていったのである。
尖閣列島をめぐる中国との確執では、交渉による解決ないし棚上げではなく、交渉拒否、力による対決をめざす勢力が強まり、対決に備える軍事力増強の声が一層大きくなった。安倍政権下で強調された「積極的平和主義」は、こうした風潮を象徴するスローガンでもあった。2015年の集団的自衛権行使容認と日米同盟の強化はその具体化であった。政府内で「抑止の理論」は圧倒的な力をえて、「9条の精神」を守り抜こうとした内閣法制局などは踏みつぶされた。
☆ 今回また、政府は「中国の脅威」を持ち出して、その抑止のために「敵基地攻撃能力」の保有が必要だという。「抑止の理論」を錦の御旗として、自衛隊の軍備と行動を拡大してきた路線はついにここまできた。この「勢い」は、中国の核兵器に対応するためにわが国も核兵器を、との議論まで進みかねない。「抑止の理論」からは軍事力を制約制限する方針は出てこない。とめどもない軍拡の流れを前に国民の平和への願いは遠のくばかりである。相手国もまた対決の姿勢を強め、平和交渉は一層困難となる。
中国との対立の大きな原因となった「尖閣列島の問題」も、その帰属を将来世代の解決に委ねて「棚上げ」し、当面は共同管理をすればすむことである。台湾問題も、日本は紛争の一方に加担せず中立の立場で、中国、台湾、アメリカに現状維持と平和解決を働きかける道があるではないか。
ちっぽけな島の領有にこだわり続けたりせず、また、日米同盟の連携に全身全霊を傾けたりせず、わが国の外交姿勢をわずかに変えるだけで、中国との融和、協調の道は容易に開けてくるのではないだろうか。なにせ、地理的に近い日中間は、歴史的にも文化的交流が深く、もともと長く友好関係にあって、対立した時期はほんのわずかであった。融和、協調の道を取り戻す条件は十分にある。中国の共産主義イデオロギーは平和共存の妨げとなるものではない。中国の民主主義も、解決を将来の中国人民自身にゆだねるほかにないではないか。
☆ 憲法9条の精神で、中国と融和、協調の道を歩むのを妨げようとする勢力がいる。日本の反共右派勢力がその一つ。もうひとつ、「自由主義」対「専制主義」の対立緊張をあおるアメリカである。アメリカは世界の覇者の地位を中国に奪われるのではとの恐怖にとらわれている。
「日米同盟」もほどほどであれば、わが国の平和維持に必要なものかもしれない。ただ、ことさらに中国との融和、協調関係の構築を妨害し、対立緊張をあおる「日米同盟」なら、わが国はこれと距離をおく道を探らなければならない。
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