「朝日新聞政治部」を読む

  この5月に講談社から出版された「朝日新聞政治部」を読んだ。
  久しぶりに胸の昂ぶりをおぼえた。まことに不合理・非道な事件、そのわりに筆致は冷静であり、公正、率直さも感じさせる。隠居老人は近時とみに大手マスコミに対する不審を募らせていたが、その原因の一端をみごとに解き明かしてくれた思いである。

   
著者の鮫島浩氏は、朝日新聞政治部の第一線の花形記者を経て、若くして「特別報道部」のデスクとなり、将来を嘱望されていた。政治・社会の闇に切り込みその深層に迫るスクープ記事をいくつも世に送り出していた。
 東日本大震災のあと、彼のチームは福島原発事故の取材をしていた。「隠された事実」を追求し、その成果は「プロメテウスの罠」として紙面をかざり、2012年度新聞協会賞を受賞した。
 
 当時、政府事故調が東電福島第一原発の吉田所長から聴取した唯一の公式記録があった。だが、政府・関係者はこれを固く秘匿していた。その「吉田調書」を部下の記者が取材により独自入手した(もちろん取材源は秘密)。国民にひた隠しにしていた原発事故の真実を伝える第一級の機密文書である。
 鮫島デスクらはこの「吉田調書」を記事にして世に出した。東電と権力の隠蔽体質と危機管理のずさんさを暴露する大スクープであった。社内外から絶賛をあびた。

   東電や政府の責任拡大に直結しかねないこの重大報道に対し、当然ながらこれを好ましく思わない勢力がいた。その勢力がその報道の事実関係における「小さなほころび」部分をとらえて、「捏造」などの言葉で報道全体を非難するようになり、ことは次第に新聞社への大きな圧力となっていった。
  「小さなほころび」は鮫島デスクもこれを認め、批判をうけた当初に「訂正」を編集部の上部に申し出ていたが、上部はたいした問題ではないとみて、この訂正申し出を受けつけず放置した。たしかにその「小さなほころび」は、客観的にみれば、記事の本筋をそこなうほどのものではなかった。
 
 朝日新聞に対する非難の声は、当時浮上していた「慰安婦記事問題」や「池上コラム問題」などと合わさり、同社幹部にとっては大きな脅威となってきた。ただ、そこで新聞社は、報道の自由、とくに巨大組織・権力の不正を暴く使命にかんがみ、(「小さなほころび」は謝罪するとしても)「捏造報道」などの非難に対しては毅然と反論し、勇気ある報道をした記者たちを擁護すべきであった。
 
 にもかかわらず、朝日新聞社はまったく逆の方針をとった。なんと「吉田調書」報道を誤報として取り消したばかりでなく、記者たちが世間から「捏造記者」のレッテルが貼られるままにし、ついには懲戒処分にさえしたのである。鮫島デスクは処分対象の中心となった。この一連の経過により、新聞社内の空気は凍り付き、自由闊達な報道体制は一転して粛清・萎縮ムードとなった。
  著者は言う。「『吉田調書』報道の取り消し後、朝日新聞社内には一転して、安倍政権の追求に萎縮する空気が充満する。他のメディアにも飛び火し、報道界全体が国家権力からの反撃におびえ、権力批判を手控える風潮がはびこった」(18頁)。この展開の速さはあたかもボールが坂道を転がり落ちるかのようであった。
  ただでさえ、発行部数を減らし続ける大手新聞社は、今後なお経済界から広告収入を確保し、政府取材を格好の位置で維持する経営安泰のために、真実報道、報道の自由という新聞社の「生命」を犠牲にしたのである。(注) 

 実は、隠居老人にも組織の変節について似たような経験がある。
   私が裁判官をしていた1970年代に「司法の危機」と呼ばれる時代があった。安保闘争など平和民主運動を目の当たりにして任官した若手裁判官らは人権感覚を大事にする姿勢にあった。政府自民党の右派勢力は、最高裁の労働事件におけるリベラルな判決傾向もあって、危機感を抱くようになり、裁判所・裁判官に対する攻撃を開始した。若手裁判官らが他の法曹や学者らと結成していた「青年法律家協会」という名の平和や憲法を勉強するグループ(「青法協」)をやり玉に挙げ、「偏向裁判」「偏向裁判官」批判に乗り出した。当時の最高裁は、この根拠のない批判に対して、司法の独立と裁判官らを守るべく毅然として対応すべきであった。なのに、これに屈し最高裁自身が「青法協」批判をして裁判官に脱会を強要する、従わない裁判官を冷遇(僻地に左遷など)する、あげくに青法協裁判官のひとりの再任を拒否する(裁判官は10年の任期で再任が繰り返される仕組み)など、アメとムチで内部統制・自主規制に狂奔したのである。これにより、裁判所の伸びやかな雰囲気は一掃され、萎縮ムードが漂い、「無罪判決などしたら転勤時に差別される」「こんな姿勢では再任されないかもしれない」「行政事件で政府を負かすと将来はない」などの「おびえ感情」が裁判所に蔓延し、裁判官の独立精神が大きく傷ついたのである。

裁判官が独立の精神で人権を守る裁判をやりぬく姿勢が萎縮せざるを得なくなったように、自由な精神で権力・組織の不正を暴こうする記者たちも萎縮せざるを得なくなったのである。いわゆる「官僚統制」といわれるもので、大組織において活動の自由が人事を軸に自主規制により縮小する典型例といえよう。 

 このブログは、中国とは違いがあって当たり前だが、事実関係に即して等身大に評価し、相互尊重の精神でもって、戦争・敵対ではなく友好・協調の関係を築いてほしい、との願いから出発している。
  日中国交正常化50周年にもかかわらず、いま日中の政府関係はいたって冷たい状態にある。そしてマスコミもこれに同調するかの如く中国に対して冷たく厳しい見方であふれている。その報道姿勢は中国に敵対し軍事優先をとなえる政府右派のレクチャーを基盤にしているとしか思えない。こうした報道姿勢がなぜにでてくるのか。少なくとも朝日新聞はかつてはここまで中国に冷たい見方をしていなかったと思う。

なぜにそうなったのか、「朝日新聞政治部」は老人の疑問に答えてくれているように思える。(了)

(注)著者の鮫島浩氏は、ユーチューブで孫崎亨氏、大西広氏と「ウクライナ戦争、マスコミ報道」などのテーマで鼎談をしている。ここでも鮫島氏の舌鋒は鋭い。 第1部第2部


コメント

  1. ご老人さま
    良い本を紹介してくださり感謝します。
    早速図書館に予約しましたが、予約済み数が多く、待たされそうです。

    ところで
    『記者襲撃 赤報隊事件30年目の真実
    (樋田毅著 岩波書店、2018年2月、240頁)
    という本をご存じですか?

    これも元朝日新聞社の人が書いたものですが、現在問題になっている統一教会の過去の事件を新聞社は報道していない、という批判の本だそうです。
    安倍氏殺害事件についての報道に奇妙なことがあることの原因がここにあると解る本のようです。

    これも図書館に予約しました。


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