憲法9条は「事前協議」「存立危機」のなかに生きている
日本有事を回避するために その1
(憲法9条は死んだか)
憲法9条は今も、平和運動の有効な手段となっているのだろうか。
憲法9条が生まれてからも、戦争に反対し平和を求める大きな運動は何度もあった。講和条約をめぐり・・・、自衛隊創設に反対し・・・、安保条約改定に抵抗し・・・、原子力空母の寄港に反対し・・・、集団的自衛権行使容認(安保新法制)を許さない等々・・・。
これらの反戦平和の闘いのとき、私たちが手にした「武器」はつねに憲法9条であった。残念ながら、闘いはいずれも敗れ、平和を危うくする法案・条約が国会で成立・批准され、反戦の世論は抑え込まれてきた。
その都度、憲法9条という平和のための砦は突破され、破損させられ、輝きが損なわれ、ついには「憲法9条は死んだ」という学者さえあらわれる現在である。
たしかに、政府が真向から憲法9条の破壊を推し進め、次々と戦争準備の法制を整備してきたため、憲法9条を平和維持の砦としてきた勢力に、失望とあきらめの境地をもたらしている。だが、死んでしまったとあきらめるのは早すぎるのではないだろうか。
憲法9条は、たしかに往年の頼もしい機能を失いはしたものの、平和運動の反対をねじ伏せて成立させた「悪法」「悪条約」の中になおも、安易に戦争を発動させないためのブレーキ役として、どっこいしぶとく生き残っているのである。
(事前協議)
そのことをはっきり確認できるものとして、日米安保条約の第6条に関連して取り決められた「事前協議」制度がある。ここに憲法9条の不戦の精神をみることができる。
1960年に締結された日米安保条約はその第6条で、日本はアメリカ軍が極東の平和と安全のために在日基地を設けこれを使用することを許可した。だが、米軍が在日基地を使用して他国を攻撃すれば、その反撃として他国から日本の領土(在日米軍基地にとどまらない)が軍事攻撃されかねない。そこで、日本がこのような形で戦争に巻き込まれる事態を避けるため、日米間で第6条に関して公文が交換され、米軍が在日基地における「装備の重要な変更」をしたり、在日基地から「戦闘作戦行動」をする場合には、日本国政府との間で事前の協議が必要とされたのである。
この事前協議により日本は、米軍がわが国の防衛・安全と直接に関係しない目的のために在日基地の使用することをチェックし、ひいては日本が米国と他国との間の戦争に巻き込まれることを防止することができる、とした。
安保条約は、戦争に巻き込まれかねない条約として平和運動が強く反対したものであるが、その中にも、憲法9条の不戦の誓いを守ろうとする装置が、辛うじて組み込まれたのである。安保改定に反対する運動が当時の岸政権をして事前協議制度を設けざるを得ない状況に追い込んだとみるべきであろう。
わが国の平和運動は、安保条約の違憲性を主張してきた。しかし、その条約の反憲法的性格を否定するあまり、その中で生まれた事前協議制度まで無視するのは正しい平和運動の態度とは思われない。ある国に「行水の水とともに赤ん坊を流してしまう」との、「愚かしさ」を表現することわざがある。悪条約とみる安保条約を否定するあまり、事前協議という憲法9条の精神が宿る赤ん坊を捨て去ってはいけない。
(存立危機)
もう一つ、集団的自衛権行使容認を定めた自衛隊法76条1項2号(新安保法制)の「存立危機」等にも、憲法9条の不戦精神が込められている、と考えるべきであろう。
自衛隊法の上記条項は、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態」には、自衛隊が防衛出動できると定めた。
憲法9条に反する集団的自衛権を容認するものとして、平和運動の強い抵抗にもかかわらず成立させた新安保法制の中軸となった条項である。
しかし、この条項は単純に集団的自衛権行使を容認したものではない。その文面を素直に読めば、憲法9条が許容する自衛権の範囲内で、きわめて限定的に(海外での)自衛隊の出動を認めたにすぎない、とみるべきである。
この点は、仙台高裁の2023年12月5日の判決が以下のとおり明確に説明している。「平和安全法制において憲法上容認されると解釈された他国に対する武力攻撃の発生を契機とする武力の行使は、あくまでも我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置に限られ、一般的な集団的自衛権の行使として許容される当該他国に対する武力攻撃の排除それ自体を目的とする武力の行使は、国際法上は許されるとしても、憲法上は許されないことに変わりがない。また他国に対する武力攻撃の発生を契機とする武力の行使は、我が国が武力攻撃を受けた場合と同様な深刻、重大な被害が及ぶことが明らかな状況が、我が国に戦禍が及ぶ蓋然性、国民がこうむることとなる犠牲の深刻性、重大性などから客観的、合理的に判断して認められる場合に限られるという国会答弁に示された厳格かつ限定的な解釈の下に、存立危機事態における防衛出動を可能とした自衛隊法76条1項2号の規定も、厳格に解釈運用されなければならない」。
このように解釈すべき自衛隊76条1項2号も、「自衛」の必要性が生じた場合にのみ、やむを得ない措置の範囲内でしか防衛出動は許されないとした点で、憲法9条の精神を存続させているとみるべきであろう。
ここでも、憲法9条はしぶとく生き残っているのである。
国会内外の平和勢力は、台湾有事は日本有事といわれる戦争を回避するために軍拡反対、新基地建設反対などさまざまな運動に取り組んでいる。
ただ、どういうわけか、上記の事前協議制を利用して日本が戦争に巻き込まれる危険性を避けようとする主張はほとんど聞こえてこない。また、存立危機事態ではないので自衛隊を出動させるべきではないとの声もほとんど上がっていない。どちらも戦争回避に必要な何より大事な運動と思われるのに・・・
なぜこのような反対運動が力強く起こってこないのか、隠居老人にはどうしても分からないのだ。
事前協議の制度にしても、存立危機の事態認定にしても、平和勢力が憲法違反としてきた条約、法律の中に規定されているものだから、そんなものは「武器」として使えない、という観念論に平和勢力は支配されているのではないか、とも老生は邪推する。
しかし、「事前協議」制度にも「存立危機」事態認定にも憲法9条の精神が立派に生き永らえていることは上記のとおりであり、それだけにわが国民の多数に支持される基盤がある。戦争回避の「武器」としてこれを使おうとしない運動を、老生はやはり理解できない。
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