「琉球処分」清国は大いに不満 尖閣問題に尾を引く
前回に続いて、尖閣問題について考えたい。 その前に、明治初期の「琉球処分」をめぐる日本と清との葛藤を簡単に見ておきたい。これが後の尖閣問題と大いに関係するからである。 (琉球国から沖縄県へ 琉球処分をめぐって) 琉球(のちの「沖縄」)は、14世紀に明と朝貢・冊封関係に入ってその属邦となり、16世紀に清に変わってからもその関係は維持されていた。他方、17世紀に薩摩藩の侵攻を受けてからは日本の支配も受けるようになり、中国と日本の両方に従属する関係(従属的二重朝貢)にあった。 19世紀に入り、薩摩藩が琉球との関係を強めたあと、明治維新後の日本 政府は、琉球に対し清との冊封関係の廃止を求め、日本へ統合しようと企てた。 明治12年( 1879年 )にはついに、熊本鎮台の歩兵300名、警察官140名などを派遣し、武力を背景に琉球藩を廃し、 国王尚泰に 東京居住を命じて華族に列し、代わって中央から県令(知事)を配し、沖縄県を置く措置を強行した。いわゆる 琉球処分 である。 琉球処分に対しては、士族の中に特権的身分が失われる不満から清国に亡命して救援を求めるなど、旧支配層に琉球王国の再興を期す動きもあって、現地の政情は必ずしも穏やかではなかった。(⑪37頁) 他方、属邦の琉球を奪われる形となった清国には日本の措置に対する強い不満があって、なんどか対日抗議を行ったものの、阿片戦争敗北の後であり、さらにフランス、ロシアからの外患をも抱えるなか、とうてい実力で介入する余裕はなかった。 琉球処分の年6月に、アメリカ前大統領であったグラント将軍が清国に旅行で訪れた際、清国はグラントに琉球問題に関する対日仲裁を頼み、グラントはこれを受けて日本を訪れ、内務卿伊藤博文に問題を提起した。(⑰155頁) こうして始まった日清交渉で、日本が提案した宮古及び八重山の先島諸島を清に譲り、これに代えて清国から最恵国待遇を得るという「琉球処分条約案」がまとまり、調印の一歩手前まで行ったが、清国側の事情でこれが流れ、交渉は失敗に終わった。日本政府の沖縄への支配が継続しつつも、琉球をめぐる確執は日清戦争まで続いた。 1 894年、朝鮮の支配などをめぐる日清戦争が勃発し、日本の圧勝のもとに翌年終わり、 下関条約 が結ばれた。この条約で、日本は清国から台湾とその付属諸島の割譲