伝統中国には弱者にやさしい裁判があった
(勉強ノート) 現代に生きる中国の伝統思想(5) (農民らは頻繁に農地取引をした) 清代を中心とする中国近世の農村社会は、父系社会ながら(日本と違って)兄弟間で均分相続がされていた。そのため相続のたびごとに農地は細分され、経済的下降傾向は避けがたかった。農民らは零細化に抗し、家族の生活を維持するため、さまざまな努力で自らの農業経営を向上させようとしていた。 中国伝統社会は一君万民制である。中間領主(日本の藩主など)がいなかった。しかも、皇帝は広大な土地に住む万民の生活の隅々まで目を光らせるだけ十分な数の官僚配下を持っていなかった。そのため、農民は上からの命令束縛を受けることが少なく、納税義務を負う以外に、皇帝による支配を意識することはほとんどなかった。 このように束縛の少ない中で、農民は、自らの農地を売却したり他人の農地を購入することはもちろん、小作契約をむすぶことも、所有地を担保に金を借りることも自由にできた。自らの農地を売って小作人となった後、金をため数年後に小作を解消して農地を買い戻すことも珍しいことではなかった。西洋や日本で農民が農地を取引できようになるはるか以前から、中国農民は、貧困からの脱却、生活維持向上の重要な要とし、農地取引を頻繁に繰り返していたのである。もちろん、農民は農業をやめ他の地で別の家業を始めることも自由であった。皇帝は、天下の土地を誰が耕作しようと、その土地の収穫に見合う税金され徴収されれば、それで文句はない。まことにのどかな支配者の一面もあったのである(中国人は自由がありすぎたとの孫文の言葉を思い出す)。 日本の江戸時代、農民は「 田畑永代売買禁止令」などで農地の売買が禁止されるなど、さまざまな生活上の制約があった(大名以下の武家集団がこれを監視していた)のと比べて、中国農民には、はるかに自由があったというべきである(ともに貧しくはあったが)。基本的に農奴制の下に置かれていた西洋中世も、大多数の農民には自ら耕作する農地を売却したり、その土地を離れる自由などもなかったと思われる。 (農地取引にからむ紛争) 伝統中国での農民らの上記の農地取引は契約によってとりおこな