「中国のルソー」と呼ばれた17世紀の儒者・黄宗羲 (こうそうぎ)
(勉強ノート)現代に生きる中国の伝統思想(1) 黄宗羲は、17世紀の中国、明末清初に活躍した儒教・陽明学派の大学者である。その代表的著作「明夷待訪録」(めいいたいほうろく)には、時代の先鞭をつけるような民意尊重思想が書かれている。簡易にして明快な西田太一郎訳の東洋文庫版(平凡社)から大意をとってみる。 第1篇 君主論 (大意) 人類の歴史がはじまったころ、人びとはみんな利己主義であった。天下に害するものがあっても、これをとり除くものがいなかった。そこへ一人の人がでてきて、自分の利益を考慮せず、ただ天下に利益をもたらすことだけを考えて、天下の害をとり除いた。その人の労苦は天下の人びとの千倍万倍であったろう。そのような労苦を引き受け、しかも自分の利益をうけないような君主の仕事は、天下の人の人情として誰もやりたがらないにきまっている。聖代の君主であった堯、舜、禹らはいくぶん違っていたが。 だが、(聖王らの御代とことなり)後世の君主はまったく労苦を引き受けようとしない。かえって彼らは自分の利益だけを考え、天下の害は人におしつけていい、と考える。君主は人びとの利益追求を妨害する一方、天下をこよなく大きな自分の財産とみなし、しかも子孫にこれを相続させ、永遠にわがものとしようとする。君主は、人びとを痛めつける一方で、おのれ一人の財産をふやす。「おれはもともと子孫のために財産を作り出すのだ」といい、おのれ一人の淫楽にふける。天下の大害をなすのは、君主なのである。もしも君主がいなかったら、人びとはおのおの自己本位に行動できたのである。 むかしは、天下の人びとはその君主に親愛の念をもっていた。父にたとえ、天になぞらえたが、今や人びとは、その君主をうらみ憎しみ、かたき同様にみなしている。後世の君主が天下をわが財産とみなすとき、人びともその財産を手に入れたいと思うのは当然である。君主一人がその財産を紐でしばりかぎを固くかけて守ろうとしても、天下の人びとの方が人数が多いので、君主は人びとに打ち勝つことができない。自分の代のうちか数代後かに天下はうばわれ、血みどろの破滅が自分か子孫におこって滅亡する。 子孫はいたましいではないか。一時の淫楽